放課後。自転車置き場。

美紀はテニスラケットの入ったスポーツバックを前籠に乗せた。

珠希の形見となったラケットをとても大切にしていた美紀。

もし自分が国体の選手になれたらそのラケットで戦おう。
それが珠希の一番の供養になると考えていたからだった。


だから何時も珠希の仏壇の前にテニスラケットをお供えしていたのだった。


自分は昼間使わせてもらっている。
だけど夜はそれで楽しんで欲しかったのだ。


「ママ。力を貸してね。もうじき試合があるの」


他力本願はいけないことだと、自分自身が一番分かっている。

でも美紀は、親子でインターハイに出たいと思っていた。


秀樹直樹の甲子園同様、美紀も珠希の夢・国体の選手を目指して頑張っていたのだった。




 ソフトテニスは軟式テニスと言っていた頃とはルールが違っていた。

前衛と後衛に分かれる。
それは同じだった。
大きく違うのはサーブだった。
一人だけから二人の共同作業になったのだった。

前衛は守りのみだった。
スマッシュやボレーの腕を磨くだけで良かった。

珠希はその前衛だった。
中学高校で培った力を全面的に否定されたようで最初は慣れなかった。

サーブは後衛に任せっきりだった。

珠希は全くサーブの練習などして来なかったのだ。

だから人一倍悩んだのだった。

でもどうせ遣るなら、誰にも打てない物を。
そう思って、初めたイングリッシュグリップ。


自然にサーブも決められるようになるために珠希は死に物狂いの努力を自分に課せたのだった。




 その頃、それは新ルール・国際ルールとも呼ばれていた。

軟式テニスは、ソフトテニスとして大きく羽ばたいこうとしていたのだ。


珠希が戸惑ったのはサービスだけでは無かった。
一番はジャッチだった。


練習中に審判を置かないでプレーするとどうしても、自らアウトコールをしてしまう。

でも試合中につい出てしまうことも度々あった。


『アウト』
などと思わず言ってしまうのだ。

でもルール改正数年後に、その行為が反則に加えてられたからだった。


それは数人でプレーす団体にとっては致命的だった。
そのジャッチ行為を無くすことが第一と考えた珠希は、どんな時でも審判席に座らせることにしたのだった。