「おい!愛葉リン!おい!」
 低い声がリンの頭を連打する。思考には闇が蠢いている。目を閉じているようだ。リンはゆっくりと目を開いた。淡い光が目に入り込んだ直後に訪れた者は、あろうことか安東ツカサだった。
「安東ツカサ!」
 リンの唾が彼の顔にかかる。ツカサは冷静に手の甲で唾を拭っていた。
「いきなり俺の名前を呼んで、唾を放出するとは、厄介な女だ」
 表情を変えることなくツカサがいった。整髪料を丁寧に施したミディアムヘアー。切れ長の眉とコラーゲン注入すら疑われるふっくらとした唇は女性から見ても嫌らしい。Yシャツの第二ボタンまで開けて胸元を見せているのは意図的だろう。少し肌が焼けていた。
「いや、だって。手紙」
 リンは思わず口元を手で押さえる。手紙という単語は禁句だ。彼はリンが書いていることは知らない筈なのだから。
「手紙?お前何を言ってるんだ。屋上で死体のように眠っている女はお前ぐらいしか知らない」
 ツカサの右手がリンの頬に触れた。いや口元に。温かい手だった。手紙の文面と同じように。
「ちょっと、いきなり何するのよ」
 リンは後ずさる。
「ああ、ごめん」とツカサはバツの悪そうな顔をし、「お前、泣いてたから」と真実味のある真剣な表情に変わった。澄んだ瞳、引き結ばれた唇。
「涙?」
 自分に言い聞かすようにリンはつぶやいた。たしかに何かが可笑しいし、なにかがリセットされている気がする。あれは夢だったのだろうか。それにしては長い夢だった気がする。頬を両手でパンと叩き、彼女は確信をつく質問をツカサに浴びせた。
「ねえ、手紙というかラブレターの夢見る?」
 反応があった。ツカサの目が細められ探るように視線を彷徨わせた。
「俺だけだと思ってたんだがな」
「どういうこと?」
「手紙というかラブレターの夢だろう?紙ヒコーキを飛ばして思いを告げる。俺も右翼棟の屋上で眠っているときに、その、夢を見るんだ。俺の手紙の返信を書いているのがお前で、文章のやり取りをしている」
「それってどういうことなんだろう」
「俺は一つの仮説を立てた」
 仮説とは大きくでたな、とリンは思った。何かと仮説社会の世の中で、耳が痛い現象だ。
「この学園の名前は?」
「ペイン」
「そう、ペインだ。ペインとは痛みという意味がある。そこでこの学園の歴史を遡ってみた。すると、面白いことがわかった」
 リンは身を乗り出し、「何?」と訊いた。
「過去の卒業名簿の中に俺と同姓同名が存在している。さらには宝条マイという女性もいた」
「最後の文面は意味深だったのよ。時間がないとか」
 リンの言葉にツカサが人差し指を立てた。「そう、彼は卒業名簿に名前は記されているが白血病に掛かり亡くなっている。
「それって・・・・・・」
「俺と同姓同名の悲恋が見せた幻影かもしれない。だけど、宝条マイという女性はお前にそっくりだ。後で卒業名簿を見てみるといい」
 ツカサは最後の言葉だけ照れくさそうに、目を泳がせながら言った。
 沈黙。二人は見つめ合う。視線の沈黙が数秒行われツカサが口を開く。
「なかなか言い文章を書く」
 ツカサは背を向けた。
「でも、あれは夢だったんでしょ」
「いや、最初は俺もそう思った。しかし、やり取りした文章は俺等二人の意志だったように思う」
 今が夢なのか現実なのかリンにはわからない。でも、屋上にいると必ず起こる現象は変わらない。
 風。
 一陣の風が柔らかく空間を覆う。しかし、すぐに切り裂く音が聞こえた。
「ああ!二人とも怪しい。こんなところで何してるの?ねえ、ツカサ君。それに、リン!!」
 アイが血相を変えて屋上の出口付近で喚き散らす。ツカサは悠然とした足取りで、まあまあ、という感じでアイを宥め、姿を消した。アイは釈然としないのか、華奢な脚に似つかわしくない巨人が歩くような大股でリンの方に前進しこう言った。
「恋人選びはツカサ君以外でお願いね、リン!」
 やれやれ、人生というのはうまく運ばない。少なからず友達はアイだけだし、ツカサの最後の意味深な言動に酔いしれることも許されず、何かと痛みが付き纏う。
 リンは天を見上げた。
 柔らかく愛おしい見えざる風が渦を巻いているように見え、その渦の中心には痛みという概念はないのかな、と思ったときには風は止んでいた。