――ふとした、恋。





待ち合わせ場所に着いたとき、辺りを見回しても傘をさしてるのは私一人だけだった。ここまで来る途中で、小雨だった雨はすっかり止んでしまったらしい。でも何故だか傘を閉じるような気にはなれず、足早に過ぎていく通行人を、傘をさしたまま歩道の端に寄って眺めていた。そんな、殺風景でモノクロの日常に、私の赤いコウモリ傘だけが、ぽつん、と色をつけているようだった。
ここに来て三分が経過した頃、カバンの中で、ちいさく携帯が震えた。それは彼からの電話で、どんな嫌なことを言われるんだろう、と思いながら出たら、案の定、「今起きた」という、寝起き丸出しの声がした。これが私との約束だったからまだ良かったものの、大事な仕事があるような日だったら、取り替えしのつかないことになっているだろう。待ってるから早くきて、とだけ告げて、電話を切った。

空を見上げる、雨は降ったり止んだりを繰り返している。

最低でも30分は来ないだろう、と確信した私は、近くの古本屋に、雨宿りも兼ねて入った。彼の家の本棚に並べられている数少ない本の一つ、伊坂幸太郎の作品を手に取り、ぺらぺらと目を通す。彼に出会ってから私は、伊坂幸太郎を読むようになり、アジカンも聴くようになった。彼に言わせればそれらは、趣味と呼べるほど大それたものでもないようだけど。そんなちっぽけなところに影響を受ける私は、「大好きなんだね」と言われても否定できないほどに、彼に染まっていた。

ぽすん、と、肩に生温い手の感覚を覚える。反射的に、体が跳ね上がり、振り向くと、口元だけでわらう、私を待たせた張本人がいた。そんな驚くなよ、と弱々しく恥ずかしそうに呟き、私の腕を引いて店を出る。外は先刻と変わらず、雨が降りそうに薄暗いまま、街は特有の気の抜けたような匂いを含んでいた。私は真っ赤なコウモリ傘をもう一度開いて、彼と並んで歩く。雨降ってねーのに傘さすの?と聞かれたので、頷いておいた。彼は、なんとなく、まあそんな奴も中にはいるか、と納得したような顔になった。


「髪型、せっかくきれいにセットしたのに、急に雨が降ってきたりして崩れるのが嫌なんです。だから、念のため。」

「でも結局、湿気とかにやられない?」

「まぁ、確かに。あなたが遅れるから、もう崩れてるかもしれないです。」

「みして、」


傘に遮られて、私の髪型がよく見えないという彼の為に、嫌々ながら傘を退かしてみせた。どうですか、とでも言おうとした私の唇を、不意に彼の唇が塞ぐ。それは一瞬で、一秒もしないうちに離れた。不意打ちで、しかもこんな場所でキスをしてくるなんて、まだ意外とやることは若い。そう考えると、また、笑いが込み上げて、口元が緩んだ。


「ごめん、ちょっとフザけた」

「ふ、照れるならやらないでくださいよ」

「・・あ、似合ってるよ、髪型」


私の顔も見ずに言った。どうせろくに見てないくせに適当ですね、と言ったら、じゃあもう一回みしてよ、とニヒルに笑う。
もう若くないんだから、と言いつつ、当たり前に嬉しいもので、年甲斐もなくドキドキしてしまったのも事実。

私はお気に入りのコウモリ傘を閉じて歩くことにした。いつでもキスしていいですよ、という気持ちを込めて。





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