「綾、今日はちょっと遅くなる。夕飯いらないからね」



「分かってるよ。昨日も言ってたから。毎日気を使って残業断ってこなくていいよ。はい。今日の夕飯の分まであるから」



手渡したお弁当の包みを受け取る瞬間、一瞬だけ困ったような顔をした。


そんな顔して欲しくないのに。
させてるのは私。




「バカね。綾のためじゃないわよ。

私が帰らないと下が帰りづらいでしょ?部下に気持ち良く仕事をしてもらうのも上司の仕事だからね」



笑顔で私をたしなめる真理子。


「ごめんごめん」と私も笑顔で謝る。
それは、私への気遣いだと分かってるから。



「じゃあいってくるね」と走り去る真理子の背中を見送って、私も自分の支度へと取りかかる。






あの日ーー

友田の家を飛び出した私は、いつも持ち歩いていた鞄ひとつだった。



家を出てすぐに携帯の電源をオフにした。

長時間戻ってこない私を心配して友田がかけてくることは分かってるから。




夏の始まりだった。

なのに、夜の風は冷たくて、からだの震えは止まらなかった。




行く宛がなかった。


ただ呆然と歩いていると、いつか竜くんと来たカフェの前だった。




偶然にも、あのときの店主が閉店準備をしているところに出くわした。



彼女の視線が偶然私をとらえたすぐあと、彼女はすぐに私の元へと駆け寄ってきた。



きっと、ものすごく情けない顔をしていたんだと思う。