私はいつになくイラついていた。元々、自分でも思うほどに温厚な性格ではあるが、今回ばかりは耐え切ることが出来ずに無言で家を出た。

私がイライラとするのは、ついひと月前、私の元へと嫁いできた娘に対してだ。一回りは年下であったが、長く綺麗な髪と愛嬌に、一発で見合い結婚を決めてしまった。その時は良いものをもらったと思っていたのだが、さて二人暮らしを始めてみれば、掃除はできない、料理も下手、更には人の妻であるにもかかわらず、色んな男へと平気で媚を売る。そして今日、私と昼食をとっていた最中だと言うのに、他の男の話ばかり、もういい加減に我慢の限界だった。

いつまでたっても収まらないイラつきに、行く宛もなく街を歩いていれば、ふと自分が学生だった頃に住んでいた場所の近くまで来ていた。
ほんの数年前の話だ。近くの大学へ通うために、この近くへ下宿していたのだ。全く、懐かしいところまで来てしまった。
ふと、自由だった学生の頃を思い出しイラつきが緩和された気がしたが、妻と同じ名前の花が視界に入った途端、再びちくちくと私の心を刺激しだした。
ああ、なんて日だろうか。
それでもここまで来たのには何かしらの縁があったに違いない。下宿先のご家族の元へでも挨拶に行こうか、この時間なら、奥さんが昼食の片付けをもくもくとしている最中だろう。
私は下宿先の方へと足を進めた。歩いている目的が見つかっても尚、道沿いに続く桜の木が、私の機嫌を取り戻すことはしてはくれなかった。こんなに小さく気取った花よりも、もっと、赤々と燃えるような、まるで、紅葉の葉、そんなものの方が私は好きだ。その葉はいつだって、学生時代の甘く苦い初恋を思い出させるのだから。
ああ、初恋と言えば、あのお嬢さんは今はどうしているだろうか。もう、お嬢さんと呼べる歳ではないのだろうが、今でも彼女は下宿の向かいの家に住んでいるだろうか。嫁にでも行ったのだろうか。それともまだ、独り身でいるのだろうか。あの時と同じ髪型だろうか。よく来ていたあの着物は、今でも着るのだろうか。
考えているうちに、彼女に会いたくて会いたくて仕方がなくなった。あの優しい笑顔をもう一度見たい。できれば一言二言、会話がしたい。あの頃の純粋な恋心を思い出したい。そう思った。
そう思った途端、人間とは単純なものである。足取りも軽くなり、気づけばあっという間にお嬢さんの家の前まで来ていた。
家の作りは、下宿から毎日見ていたものと寸分変わらなかった。水を撒くための桶も、変わらずそのままの場所に置いてあった。
さて、これからどうしようか。彼女の家へと押しかけたところで、私はこの家の人はお嬢さんしか知らないのだ。面識のない男がいきなり来ては困るだろうし、私も居心地が悪い。タイミング良くお嬢さんが出てきてはくれないだろうかと思案した時、
「あら?どなたかしら?」
ふいに呼びかけられた声に、頭の先から足先まで電気が走った気がした。何年経とうと間違うことはない。柔らかいこの声は、あの時よりも随分と大人しめに感じるがーーー
「お嬢さん…?」
恐る恐る振り返れば、やはり彼女だった。あの頃よりも大人びて、色気の増した彼女の大きな目に見つめられ、私の心は緊張で凍りついた。彼女はまじまじと私を見つめる。そうして暫く私を見つめたあと、彼女はゆっくりと口を開いた。
「あの…もしかして、紅葉の簪をくださった、あの時の学生さん?」
「…ええ!ええ、そうです!いやいや、懐かしい人に出会った!」
「本当に、気晴らしに散歩に出てきてよかったわ。」
「いい天気ですものね。私も散歩がてらここまで来たんですよ。」
飛び上がるほどの喜びが私の心を占めた。彼女が私を覚えていてくれた。その事実に、学生の頃に戻ったかのように心が弾んだ。
彼女は、何年経とうと変わらない美しさで、私に微笑みかけた。そのことに歓喜する私は、それでいて彼女の腹に驚愕していた。その腹は一目見ればわかるほどに大きく、彼女が妊娠していることを告げていたのだ。あの時もよく着ていた大きな紫陽花の描かれた着物が、妊娠している腹に押されて醜く歪んでいた。
「ご妊娠されているのですね。おめでとうございます。全く、時が経つのは早いものです。」
「まあ、ありがとうございます。気づけば私も二児の母ですわ。」
そう言って彼女は嬉しそうに腹を撫でた。その顔はまさしく母の顔であった。私はなんだか、敗北感のようなものを感じた。心の何処かで、想いすら伝えずに終わった初恋の続きをすることができると感じていたのかもしれない。なんて傲慢なのだろうか。そして愚かなのだろうか。私が未練を残したまま大学を卒業し、下宿を出て働き、見合いで下手な結婚を決めている間に、彼女はこんなに幸せな時を歩んできていたのだ。家を出てきた時に感じていたイラつきが心へと戻ってきた気がした。
「あ、そうですわ。あの時は簪、どうもありがとうございました。今でも大切につけていますのよ?」
彼女が首を逸らして振り返ると、髪を纏めた先には、紅葉を模った小さな鼈甲の簪が髪に煌めいていた。
この簪を贈ったのは、学生生活の終わり頃、下宿から毎日見える向かいの家のお嬢さんに、恋をしつつも声をかけれなかった私が、そのきっかけ作りに渡したものだ。当時、学生では買えないほどの値段の簪を無理に買い、妹に渡す予定だったがと嘘をついてまで渡した簪だった。
お嬢さんの髪とその簪を見て、私はその時のことを、鮮明と表現できるほどはっきりと思い出した。

その日、私は買ったばかりの簪を手に、下宿の窓から向かいの家の様子を覗き見ていた。そして、玄関先にお嬢さんが居ることを確認し、私は下宿先を抜け出たのだ。
彼女はその日も、玄関先に小さめの桶に入った水を撒いていた。そろそろ桶の中が空になる頃合いを見計らって、私は彼女の近くへ歩み寄る。
そして手に紅葉を模った鼈甲の簪を握りしめ、震える足を抑え、私はお嬢さんへと声をかけた。
「お嬢さん、こんにちは。紅葉は好きかい?」
「あら、学生さん、こんにちは。紅葉は大好きよ。」
「そうか、それはよかった。できるなら、これをもらってくれないか。妹に贈るつもりが断られてしまってね。」
「まあ、綺麗な鼈甲。私なんかがもらってよろしいの?」
「ああ、構わないさ。宛に困っていたのでね。そんなものでよければ。」
「そんなものだなんて、素敵なものですもの、嬉しいわ。ありがとう、学生さん。」
見ず知らずの人からの贈り物を貰ってくれる彼女の優しさに感動しつつも、君のために買ったとは言えなかった。それでも、嬉しそうに頬を赤らめて簪を見つめる彼女を見たなら、それで充分に満足した。
「簪、つけてみてくれないか?」
「ええ、喜んで。」
彼女は長い髪の上半分を留めていたリボンを解くと、スルスルと髪を結い上げ簪を留めて見せた。髪が揺れる度に香る彼女の香りが、普段は見えないうなじを、更に色っぽくみせていた。
「どうかしら?似合う?」
クルッと一回転しながら彼女は私へと問いかけた。
「とても。君のためにあるかのようだ。」
「まあ、口が達者だこと。」
クスクスと笑って、ありがとうございます、学生さん。と言い残し、桶を置いて、彼女は家の中へと戻って行った。
あの時の私は叫び出したい気分だったように思う。彼女にありがとうと言われたのだ。しかも贈り物までしてしまった。そしてそれを彼女は今、髪に纏っているのだ。なんて素晴らしい。と。
そうして私は、緩む口元を隠しながら、今来た道を急いで引き返して行った。

その時の簪を、彼女はまだつけていたのだ。他の男の元へと嫁ぎ、その身に男との子供を宿した今でも、彼女は私が贈った簪を身につけていたのだ。なんて律儀な人だろう。やはり、結婚するならこんな女性とするべきなのだ。あんな娘でなく、目の前のお嬢さんのような人と。
そう思ったが最後、とことん自分の人生を恨んだ。なぜあの時もっとお嬢さんと関わらなかったのか、もしかしたら、私とお嬢さんが結ばれることもあったのかもしれない。それなのに何故、私はあんな娘と結婚をし、そして今その娘のことで悩んでいるのだろうか。くだらない。全くくだらない人生だ。こんなものを人生と呼んでいいのだろうか。私がまともな人生を歩むことはなかったのだろうか。
そしてそれに連鎖するように幾つもの後悔が頭を掠めた。たくさんの過ち、失敗。私の人生を否定するかのような物事が、どっと押し寄せた。
そこからはお嬢さんとも適当に会話をして別れた。別れ際に、是非お食事にでも来てくださいな。と誘われたが、行く気は全くなかった。それよりも先に行く場所があると悟ったからだ。
そう、あの紅葉に会いに行こう。
あの頃の紅葉に。ふわふわと掴み所のない桜でも、でかい腹を抱えた紫陽花でもなく、あの頃の紅葉に。
そうして、今度は絶対にあの紅葉を手に入れよう。私の幸せな人生と共に、あの紅葉を手に入れるのだ。もう一度、この人生をやり直そう。最初から、あの紅葉のために、やり直すのだ。