古びた家の畳の間に通された彼は幸恵に会うなり両手をついた。

「子どもができたというのに何年もほったからかしにしてしまってすまない」

 青年は畳みに額をこすりつける。下げられた頭の黒々とした短髪が幸恵の目に飛び込む。

「就職が決まったんだ。決して楽な生活はさせてあげられないけど、やっと親子三人で暮らせるようになった。僕について東京に来てくれないか」

 当時、大学四年生だった青年は就職活動で大手アパレル企業の内定を取った。

「頼む。もう一度僕とやり直そう」

 青年は真正面に座る幸恵を見た。彼女は彼とわずか二歳しか変わらないが、しばらく見ない内にえらく落ち着いた大人の女の空気を身につけていた。学校帰りにデートを重ねていた少女の頃の彼女とは全くの別人だ。

「今更そんなこと言われたって」

 意外な客の訪問に幸恵は戸惑っていた。実家に帰ってきたばかりの頃は大きなお腹を抱えながら毎日恋人のことばかり思っていた。彼からの連絡が途絶えてからは、恋の破局を現実のこととして受け入れるのに時間がかかった。近年やっと心に平安を取り戻したというのに、どうして彼は今頃になって自分の所にノコノコやってくるのだろうか。