「忘れてたんならいいや。この際だから、もう思い出すなよ」

敦哉さんは、楽しそうに笑っている。
忘れていたのは確かだけど、納得したからではない。
嫌がらせをされた事を、気付いてくれた事が嬉しかったから。
そして、助けてくれた事も。
それに、過去の話な上、半分嘘の関係で成り立っている私たち。
そんな関係で、私がとやかく言う立場ではないと思っているのだ。
だから、もうその事は問い詰めない。
そう決めたのだった。

「うん、思い出さない。だから、これからはしないでよ?」

拗ねた口調で言うと、敦哉さんは声を上げて笑った。

「当たり前。だって今は、愛来っていう彼女がいるもんな」

「敦哉さん•••」

年甲斐もなく、胸がときめきで締め付けられる。
『彼女』という言葉でしか、私が敦哉さんの側に居られる理由がない。
そんな際どい立場だけれど、好きな人の側に居られるなら、それで良かった。
二人で歩く帰り道は、一人で歩くよりあっという間で、気が付けばアパートに着いていた。

「じゃあ、敦哉さん、昼間は本当にありがとう。おやすみなさい、また明日」

そう言ったはいいけれど、本当はまだ別れたくない。
だけど、素直にすがれないのは頭の中でセーブしているから。
私は敦哉さんを好きでも、敦哉さんは違うと分かっているから。
オートロックの解除も出来ずに、俯き加減でその場に立ち尽くす。
すると、敦哉さんが優しく手を握ったのだった。

「帰したくないな、俺は。愛来だってまだ帰りたくないだろ?」

やっぱり、私の気持ちなんてお見通しだ。
分かっていて、引き止めてくれたに違いない。
小さく頷くと、手を引っ張られた。

「俺の部屋へ帰ろう」

『行こう』じゃなくて、『帰ろう』。
その言葉を選んでくれた事が嬉しくて、敦哉さんの部屋へ入ってすぐに、私は自分でも驚くくらいに、真っ先に敦哉さんに抱きついていたのだった。

「愛来?どうしたんだよ、いきなり」

カバンを落とす様に置いた敦哉さんは、私をそっと抱きしめる。

「だって、帰ろうって言ってくれた事が嬉しかったんだもん。私が敦哉さんの部屋に行く事を、当たり前の様に言ってくれた事が嬉しかったの」

もう、抑えきれない想い。
恋をするということは、こんなにも楽しい事だっただろうか。
少しだけ体を離すと、敦哉さんを見上げる。
小さく微笑む敦哉さんに、次の瞬間には背伸びをして唇を重ねていた。
さすがに不意打ちだったのか、敦哉さんの戸惑う表情が見える。
それでも、唇を離す事は出来なかったのだった。