原島家の人間は、江戸の昔より氷室家に仕えてきた。


当時氷室家は八十万石の大名で、原島家は家老だった。



幹久本人は、二十歳の時から氷室家に仕えて五十年、勤めながらソルボンヌ大学に留学もさせてもらった。



成長し、開業医をしている息子と娘こそは、直接氷室家に仕えているわけではないものの、原島本人にとっては、氷室家に仕えることが、ライフワークといっても過言ではなかった。


 
四十代始めに執事に任命され、涼輔の母親が若くしてこの世を去った時、涼輔の教育係を命じられた。


以来二十三年間忠実に仕えてきた。


幼くして母親を亡くし、多忙な父親とは十分に親子のふれあいをする機会のなかった涼輔に最も近い存在だ。


涼輔の祖父で、戦後最大の傑物の一人と言われた先代の主人氷室正臣(ひむろ・まさおみ)元伯爵は、利発な孫に期待する余り、ややもすると涼輔に厳しくし過ぎるところもあった。


その彼との間のクッションのような役割をも勤めてきた。


その原島が、これほどまでに激しい物の言い方をするのは、青天のヘキレキと言ってもよいことだった。