心臓がどきどきしている。


性的欲求の高まりのせいじゃない。
女の子とホテルに行っても、こんな心臓になったことない。


ゆきの存在が、拓海を落ち着かなくさせる。


拓海は目を閉じて、深呼吸した。
これでは夜、眠れない。


拓海は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に飲み干す。
できれば頭から冷たい水をかぶりたいくらいだ。


ゆきをこの家にいれてしまったのは、失敗だった。


バスルームから水音が聞こえる。
拓海は頭を振って、自分のベッドのシーツを替えはじめた。


さらっとした感触の清潔なシーツを手でのばしながら、どうしてゆきに全部話してしまったのか、考えた。


後悔半分と、安堵半分。


楽しい話じゃなかったはずなのに、ゆきは優しく微笑んで、拓海の身体を抱きしめた。
ゆきの身体は拓海より小さい。
手も短くて、身体も薄い。
それなのに、拓海はゆきに包まれているような、そんな感覚を抱いた。


「拓海先生」
部屋の入り口でゆきが声をかけた。

「あ、うん」
拓海はあわてて、身体を起こした。


顔から何を考えていたか読まれるんじゃないかと、心配になった。


「ありがとうございました。さっぱりしました。シーツもわざわざ替えていただいて」

「いいよ、そんなの。冷蔵庫にペットボトルのミネラルウォーターが入ってるから、勝手に開けて飲んで」

「はい。すいません」


拓海は冷房をつけ、自分の着替えをクローゼットから取り出し、部屋を出る。


ゆきはソファのところで、水を飲んでいた。

ウェーブの髪が濡れて光っている。
化粧をおとしたゆきの頬は、ほんのりピンクに染まっていた。


自分の衣類を身に着けているのを見ると、なんだか落ち着かなかった。


「遠慮しないで、先に寝てて。俺、シャワー浴びてくる。トイレはリビング出たところの扉だから。テレビが見たかったら、そこにリモコン」
拓海はそう言うと、テーブルを指差した。


バスルームに入り、鏡で自分の姿を見た。
動揺が現れていないか、チェックする。


考えてみれば、ゆきとは一度寝ているのだ。
拓海がまったく覚えていないというだけで。



初めて女性と関係したのは、二十歳のとき。
結城のいない夜、一人で街をぶらついていた。

結城はそのころ女性と夜を過ごすことが多くなり、帰宅はだいたい午前三時ぐらい。
太陽が昇る前には必ず帰っていた。


結城がいないと、拓海は何もすることがない。

一人部屋の中にいると、どうしても記憶と現実の狭間で揺れてしまう。
生々しい感触に汗をかき、そんなはずもないのに血の匂いを感じたりした。

雑踏の中にいるほうが、気がまぎれてよかった。


深夜まで空いているカフェのテラス席で、一人でコーヒーを飲んでいた。
季節は秋。
肌寒いけれど、外気に触れるのは気持ちよかった。


そこで声をかけられた。
二十代後半の大人の女性。ビジネススーツを着て、爪はきれいに整えられている。
少し酔っているようで、おかしいくらいによく笑っていた。


彼女に誘われるまま、初めてそういうホテルに行った。
なんでついて行こうと思ったのか、今となっては思い出せない。


興ざめするような、けばけばしい内装。
人工的なブルーの照明。


ホテルの部屋にはいると、彼女は履いていたヒールを蹴飛ばすように脱ぎ、ジャケットを脱ぎ捨てた。
彼女はブラウスのボタンを片手で外し、白いレースの下着を見せる。「おいで」彼女が手招いた。
拓海は着ていたジップアップのトレーナーを脱ぎ、彼女の側に寄る。


彼女のきれいな手が、拓海の頬にさわる。
爪の感触を覚えている。


拓海は彼女に「はじめてなんだ」と言った。
彼女はにっこりと微笑み、拓海を引き寄せた。


セックスは思ったほどには悪くなかった。
目を閉じれば、部屋の装飾も、彼女の顔も見なくてすんだから。


汗ばむ肌の感触。
荒い息づかい。


何も考えなくていいのは、拓海には必要なことだった。


最高の快楽を味わったあと、身体を離した。


絶頂を超えると、そこには何もない。
拓海にはもともと何もなかったんだと思い知る。

むなしさと、
罪悪感と、
自己嫌悪。


彼女は連絡先を教えてくれたけれど、二度と連絡はしなかった。



拓海は熱いシャワーを浴びながら考えた。

もし十八のとき、鈴音と関係を持っていたら、何か違っただろうか。
彼女と男女の関係になることなど、当時は考えもしなかった。
彼女は特別な存在で、絶対的な運命の人。
魂の巡り合わせで出会った、男女の枠を超えた大切な人。


拓海は頭を振る。

起きなかったことを今更考えてもしかたない。
何も変わらない。