「唇がひりひりする」

二人で並んで歩きながら、結城がぼそっとつぶやく。


奈々子はその言葉に赤面する。
結城はそんな奈々子の様子をみて、うれしそうにしていた。


電車の動き出す時間だ。


あれからずっと、公園のベンチに座って過ごした。
たわいもない話をして、キスをして、
またくだらない話をして、それからまたキスをして。


唇だけじゃなく、
頬に、
おでこに、
首筋に、結城の唇がさわる。

彼の髪が頬に触り、ふわっとシャンプーの香りが漂う。


夢を見ているみたいだった。


結城は奈々子の手をひき、改札への階段を上がる。


朝一番目の電車が動き出した。


人はまばらだ。
歩いている人たちは、夜を寝ないで過ごしたようで、一様につかれている。


「気をつけて」
結城が奈々子に言った。


奈々子はうんとうなずいた。
結城は最後にもう一度、奈々子にキスをすると、手を振った。


奈々子はそのまま改札を通り過ぎ、ホームへあがるエスカレーターの前で一度振り返った。


顔が小さく、足が長い。
着ている服はジャージで、少しもおしゃれではないのに、立っているだけでどこか絵になった。


結城が笑顔で手をあげる。奈々子は小さく会釈してから、エスカレータを駆け上った。


あの人と、一晩中、キスをしてた。


今更ながら顔が火照り、汗が出てくる。

改札でのキスを見ていたのか、嫉妬と困惑を混ぜたような顔で奈々子の顔を見ている女性がいた。


電車にのると冷房がきいている。
奈々子は端の椅子に座った。


昨日山手線に乗っていたときとまったく気分が違う。
自分への嫌悪感でいっぱいだった夜と、ふわふわとどこか夢見心地の今日。


「邦明さんと終わりにしなくちゃ」


奈々子はそう言ってから、はっと思い至った。


一晩中キスしていたけれど、結城は奈々子の恋人ではない。
あの人は誰とでもキスできて、誰とでもセックスできる人だ。
自分でそう言ってた。
悲惨なファーストキスを経験した奈々子を不憫に思って、新しいキスの記憶をくれただけ。


奈々子は顔を両手で隠して、深いため息をついた。
一気に昨日の夜の気分に逆戻りだ。


奈々子は結城の感触、すべてを思い出した。


もうあれ以上の経験はできないだろうと、そんな気持ちになった。