昭和40年私は大阪で生まれた。
まだまだ、高度成長期の真っただ中で、自衛隊を辞めた父は建設業で一生懸命に働いていた。


出会いは故郷が同じということでご近所さん。

味の好みは似ているはずだ。

「お母さんの作る煮豆は旨い」


父がよく、言っていた。
正月に煮る黒豆のことだ。

皺なくふっくら炊けたものではなく、あえてぎゅっと固く噛みごたえのある煮つけをする。
「田舎料理」
母は笑うけれど、それが私たちのルーツなのだ。


山陰の田舎町で生まれた母親の作る味付けは濃い。
何でも醤油と砂糖をたくさん入れた味付けで、見た目も地味だし分量も毎回違うから、味付けも不ぞろいだ。

大阪にいる親戚のおばさんはとてもセンスのある人で面倒見もいい。
私たちはよくご飯をごちそうになり、服などを見立ててもらった。

その叔母の前ではまるで借りてきた猫のようになる。

「いいえ、私なんて。姉さんのようにうまくできませんよ」

母の普段の顔ではなくなる。


家の中では張り切って料理を作るのに、ハイカラなものは出来ないといつも尻込みしてしまうのだ。


私まで固くなってしまう。
同じ歳の従妹もいるのに、親子二組になるとぎこちないのだ。


「みさちゃん、食べや。これ、作ったんやで」
「みさちゃん、寿司屋さん行く?ガラスのところから注文するんやで」

気さくに話しかけてくれるのに、私たちはどうして良いのか分からなくなってしまう。


ひらひらがたくさん付いた服を手作りしてくれる。
焼き肉屋さんや寿司屋さんにも気軽に入ってゆく。


小学生の私には出来ないことばかりだ。

まだ、20代だった母にも未経験のことだったのだ。
そんなことも私は気付かなかった。母もまた、経験不足の新米ママだったのだ。
誰もが最初から肝っ玉母さんになれるわけではない。
当たり前なのに、私は最初から完ぺきな母親を求めていたのだ。