薄曇りの中、雨が降る。
咲きそろった紫陽花が、露をはじいて淡く光っていた。

いつもと同じ朝だった。
私、秋ヶ瀬結衣。ごくふつうの高校二年生。花の女子高生…のはずだけど、とっても華がない毎日を送ってた。こんな感じで。
まず、7時起床。
起きてすぐに、ごはんを食べる。
次に顔洗って、歯磨いて、髪とかして、制服を着る。
多分、小学生のころから変わらない朝の流れ。
それから家を出て駅へ行き、電車に3駅分乗って降りて、改札出て学校まで10分くらい歩く。
本当、なんの描写のしがいもないくらいの、ありふれた日常のはじまりだった。

彼に、出会うまでは。

「おはよー」
校門で声を掛けてくれたのは、高校に入ってから出会った友達の、梨沙ちゃん。
私と違って家が地元ですぐそこなんで、いつも校門で待ち合わせている。クラスも2年から別れちゃったから、朝のこの校門から二年の階の廊下までは、大事なおしゃべり時間だった。
ラインも二人でしてるから、その延長みたいな会話をまた繰り広げていた。そして普段どおり、体育館の前を通りすぎようとした。そこの扉はなぜかよく開いていて、反射的にだけ中を見た…その時だった。

「危ないっ‼︎」
男の子の低い、切羽詰まったような声。
「結衣っ‼︎」
隣にいた梨沙ちゃんの悲鳴みたいな声。
そして私の目の前には、茶色のまあるい物体があった。あ、なんかの惑星みたい…いやいやこれってバスケのボール…なんて思考回路はすばやく巡ったくせに、肝心の肉体は微動だにしなかったらしく。

…クラッシュした。

あとで梨沙ちゃんから聞いたところによると、顔面にボールをくらった私は、のけぞったどころじゃなく、本当に後ろに軽くふっとんだらしい。
リアルにカメハメ波くらったみたいだった、足が両方とも浮いてた、動画で残しときたかったくらい見事でごめん笑えたなどとコメントされた。

…目の前で友がふっとんでるのに‼︎

しかも、一瞬目の前が真っ暗になって梨沙ちゃんの顔も見えなくなった上(きっとこの時にうっすら笑ってたんだろう)、あまつさえ鼻血まで出したとゆうのに‼︎
その血液の鉄くさい滴りは、自分より周りを仰天させたようだった。道ゆく人たちが足を止めたり、朝練中のバレー部やバスケ部やらが集まりざわつき始めた。
けれど、当の私は、ああ、小5の朝以来だ…懐かしい感じ…なんて、なんか冷静に思考していた。思考しつつ、
「大丈夫⁉︎ほらティッシュ‼︎うっわたりない、ほら、周りの皆さんティッシュ出して‼︎」
と、梨沙ちゃんにぼんやり介抱されていた。さっきの笑いのようにどこか薄情なところはあるけれど、彼女は本来てきぱきとして面倒見がいいのだ。
そんな姐御肌の梨沙ちゃんだが、「アネゴ」なので、とってもつよい。この時も、切れ長の二重の目を釣り上げて、火を吹くような怒号を上げた。
「だれだ、コレ投げたやつっ‼︎…てめぇか、平岡ァ‼︎‼︎」
体育館の中に、エコーがかって響き渡る。
…ヒラオカ。だれ…?
と、そこにいたみんなの視線の方を私も見た。それが、私が初めて彼を見た瞬間だった。

そこにいたのは、なんだかとても綺麗な男の子だった。

すらっとした体つき、長い手足。バスケ部だから肌は白め。ぱっちりとした目と通った鼻筋、唇の形も色もきれいで、そんな整ったパーツが小さな顔の中にすっきりと収まっていた。少し茶色がかった前髪が、さらさら揺れていた。
彼は、私の方をまっすぐ見つめていた。私だけを、食いいるように。
そんな風に男子から見られたのは、たぶん生まれて初めてだったと思う。

急に、心臓がおかしくなった。音がでかい。耳元で鳴っている。
なぜかわからない、なんだか何も考えられない。動くこともできない。ただ、彼を見つめるだけ。
何これ何これなんだこれ、私おかしい、なんなのと、そんな言葉だけが脳内をグルグル駆け巡った。
けれど、これが女子の本能、みたいなものなのかもしれない。教科書にも載っていないのに、ちゃんと答えに辿り着いた。

これが、恋。…たぶん。
だって、ドラマや漫画でこういうシーン何度も見たもの。スケジュール通りの毎日の中で、突然のハプニング。

絶対、恋だ。
てか、恋って呼びたいこの気持ち‼︎‼︎
「わっ結衣、鼻血さらに吹き出たっ‼︎」
ほら、やっぱ恋だから‼︎血の巡りハンパない‼︎鼓動もさらにドクドクとリズムが上がっている。どうにもならない‼︎

と、私は最高に気持ちがMAXまで高まった状態で彼を見つめていた。
すると、急にふっと、彼が小さく笑ったように見えた。目を細め、あごがやや上向いて…私を見て微笑んだかと思われた次の瞬間、彼の黒目がくるりと上に向いた。大きな瞳が白一色になり、そうしてスローモーションのようにゆっくりと、彼は後ろからその場に崩れ落ちた。

…え、なに?

「平岡が気絶したあ!」
「俺、生で気絶する人間初めて見た!」
その言葉と、私に群がっていた人々が梨沙ちゃん以外ごそっと移動したことで、私は何が起きたのか悟った。

…気絶?
私に駆け寄って、大丈夫とか言うんじゃなく?
私を案じて、心配だから保健室まで送るよとか言うんじゃなく?
歩ける?無理しない方がいいよ、とか言って、私をお姫様抱っこするとかでもなく⁈
…そっちが気絶‼︎‼︎

頭のてっぺんまで昇ったかと思われた血流が、ひゅるひゅると下がってゆくのが分かった。
「あ、鼻血止まったみたい、よかったねー」
梨沙ちゃんの声を聞きながら、私は一人放心していた。

私の、恋は、終わった。