六つの夢

 家に帰った鹿田は悄然としている。占い師の鑑定が鹿田に衝撃を与えた。今までの占いは性格や仕事のことをかなり正確に言い当てられても、過去を知ることはできなかった。この占い師は鹿田家の過去の秘密を見事に看破した。将来のことは実際にその時にならなければ誰も分からないが、過去のことが見える人の予言は当たる確率が高い。
 三年は遠い将来ではない。瞬く間に過ぎていく。三十年になると話しは違ってくる。三十年も経てば、自分はもう人生の終着駅が見えるところまでに来たことになる。人生の一番いい時はもう過去になってしまう。もし剛史が本当に三十年後でなければ帰らないなら、それでも自分は剛史を待つべきでしょうか、と横になっている鹿田は天井を眺めながら考えをめぐらしている。剛史との堅い約束。一度きりの人生を大切にしたい自分。鹿田は考えれば考えるほどわからなくなる。
 
 鹿田は気が滅入ったまま毎日仕事をしている。本当は仕事をやめて専業主婦になりたい。子供二人か三人を作って普通に暮らすのが鹿田の夢。剛史がいなければ夢は実現できない。家族もいない鹿田はそう簡単に仕事をやめるわけには行かない。仕事も自分が好きなことをしていない。転職したいが、女性の働き口は少ない。ただ生活のために働いている。仕事があるだけで、働けるだけで幸せの時代。仕事があるだけでも感謝しなければならない。剛史を待つ以外は目標がない。自分の将来を考えれば考えるほど分からなくなる鹿田は酷く落ち込んでいる。
 
 吉井は作戦を変えて、昼間にパン屋に行かなくなった。その代わり、鹿田が帰る時にパン屋の外で待つ。最初は無視していたが、あまり失礼なことをしたくない鹿田は、ただ黙って駅の近くまでいっしょに歩いてくれる吉井と、一言、二言を交わしているうちに、会話をするようになった。鹿田のアパートへの道は駅を経由する必要がない。鹿田はいつもわざわざ遠回りして駅まで行ってから吉井と別れる。
 もう少し歩きませんか、と駅についた後、吉井に誘われる時がある。気分転換のために鹿田は吉井と駅前をぶらぶらする時もある。
 占い師が言った良縁とは吉井のことでしょうか、と鹿田が不思議に思ったことがある。吉井は親が経営している貿易会社で働いていて、裕福な生活をしている。中古だけれども、戦後ではお金があっても、なかなか手に入らない車を持っている。戦後の車市場は売手市場。買いたい人が売る人に頭を下げなければ入手は困難。車所有者は裕福層の象徴。
 彼と結婚すれば、すぐに専業主婦になれる。理想からかけ離れているが、悪い話しではない。剛史を忘れることができない鹿田はどうしても吉井に心を開くことができない。
 吉井はだんだんしつこくなってきた。食事を要求したり、いっしょに外出を求めたりするようになった。やんわりと交わしてきた鹿田は、執拗に付き合いを要求する吉井を諦めさせるために、いっしょに喫茶店に行った。
 「私は彼氏を諦めるつもりはありません」コーヒーが運ばれてきた後、鹿田が単刀直入に吉井に言った。いっしょに散歩してもいいが、正式な付き合いは無理であることをこの際はっきりさせたい。
 「分かっています。でも現実を見たほうがいいじゃないですか」吉井は婉曲に言った。
 「現実を見ているから待っています」鹿田は口元を引き締めて言った。
 「いつまで待つもりですか」吉井が腕組みをした。
 「死ぬまで待ちますわ」
 「彼氏はどういう男性であるのか知りませんが、羨ましいですね。鹿田さんのような女性をそういう気持ちにさせられるのは凄い男に違いありません。でも、もし帰って来なかったらどうします」
 鹿田は持ち上げたコーヒーカップを宙に浮かしたまま、吉井の目を捉えた。「絶対に帰ってきます」
 「世の中には絶対の物はありません」吉井は覚めた目で鹿田を凝視している。
 「彼は絶対に帰ってきます」鹿田が語気を強めた。
 「凄い自信ですね」
 「自信がなければ生きていけないわ」
 「実はですね 。 。 。 」吉井が軽い咳払いをした。「私は少し調査しました。彼氏は荒瀬さんですよね。荒瀬さんの部隊の人に聞きました。戦場で傷を負った。帰る可能性は低いと言われました」
 「どうしてそんなことをするんですか」鹿田が気色ばんだ。私事が関係のない他人に調べられて、顔に怒りを一瞬浮かべた。
 「怒らないでください」吉井が鹿田の視線から一度外して、戻した。「自分を諦めさせるためにだ。荒瀬さんが帰国するような現実性があれば、私は諦めるつもり。しかし、その可能性はないに近いじゃないですか」
 「そんなことを信じないわ」鹿田の口元が微かに歪んだ。
 「その気持ちは分かります。鹿田が直接話しを聞きたければ部隊の人を紹介してもいいです。ただし、本当にいい話しじゃありません」
 「聞きたくないわ」
 「私は鹿田さんに荒瀬さんのことを忘れてください、と言っているじゃありません。ただ、もう少し自分のことを考えたほうがいいじゃないか、と思います」
 「できないわ」
 「徐々にやればいいじゃないですか」
 吉井のいうことは正しい。過去を捨てなければ前進はできない。過去に生きていれば惨めな思いをするだけ。占い師の言うことは一理がある。運命は変えられないが、自分の力である程度は改善できる。鹿田は剛史との約束を忘れたいけど、忘れられない。自分に腹が立つ時がある。
 「吉井さんッ 。 。 。 」鹿田が力を込めて言った。「気持ちは本当にありがいたいですが、これ以上会うと、吉井さんに悪いわ。もうお店に来ないでください」
 「私のことは気にしないでください」吉井は鹿田の反応を窺うように目を細めた。
 「お願いだからもう来ないで」
 「駅までの散歩もだめですか」
 「だめです」
 「そんなことを言わないでください」
 吉井を突き放すために、鹿田は苦々しげな表情を隠そうとしなかった。言えば吉井は傷つくだろうが、付き合う気持ちがないのに、これ以上会えば、真心を込めて自分に接しょうとする吉井に申し訳ない。
 鹿田が深く息を吸ってから、思い切って言った。「私は吉井さんと付き合うつもりはありません」
 吉井は血の気の失せた顔で、鹿田を見返した。重苦しい沈黙がしばらく続いた。
 「分かりました」無念の立皺を眉間に刻んだ吉井が力なく言った。
 「すみません」鹿田が頭を下げた。
 「謝ることはないよ。まあ、頑張ってください」吉井が諦観の境地に達したような顔をした。

 鹿田は目の前に座っている荒瀬を眺めている。この前よりも白髪が増えて、年を取ったような気がする。元気がなく、体が少し縮んだようにも見える。髪の毛はぼさぼさで、手入れなどしていないようだ。体力が落ちたのか、応接間はきれいに掃除されていない。古新聞や雑誌が所狭しに置かれている。応接間から見える台所も埃だらけ。わずか数ヶ月の間に荒瀬はまるで別人のように変わった。
 荒瀬は年寄りが避けたい老醜をさらけ出している。生きる意欲さえ失っている感じがする。ひょっとしたら剛史に関する悪い知らせでも、その考えが頭を横切った瞬間、鹿田は身震いをした。
 荒瀬は宙を漠然と見つめている。まるで鹿田の存在を認めないような目つきをしている。柱時計の時報知らせを聞いて、荒瀬はやっと白昼夢から現実に戻った。
 「純ちゃん 。 。 。 」荒瀬の唇がわなないている。「剛ちゃんは 。 。 。 剛ちゃんはやっぱりだめかもしれない」
 「なんらかの知らせはありましたか」鹿田は胸の底で波打つものを押さえ、反問をした。
 荒瀬が手ぬぐいで目頭を押さえて、生気を喪失した無機質な瞳で鹿田を見た。
 「役所に行きました」
 「剛史さんの情報はありました?」荒瀬の様子から判断して、鹿田は心の中で最悪の準備をしている。
 荒瀬が鼻をすすった。「役人によると、剛史が戦場で怪我をして、行方不明になりました。はっきりは言わなかったが、あまり希望がなさそうです」
 吉井の情報はやっぱり裏付けがあった。ある程度、気持ちの準備をしていたにも関わらず、鹿田は胸を鋭いもので貫かれるような衝撃を感じた。
 「確認はされました?」鹿田は眉根をきつく寄せて深刻な顔をしている。
 「確認はされていないが、戦場で怪我をして、行方不明になった。それから五年も経ちました。親としては望みを捨てたくないが、これでは本当にいつ帰ってくるのか分からないわ」荒瀬は弱気な目をして、顔を伏せた。
 「死亡が確認されていなければ、まだ望みがあると思うわ」鹿田は一縷の望みさえあれば、諦めたくない。
 「私は諦めていません。ただ、純ちゃんには悪いわ。純ちゃんは五年も待ってあげましたから、剛ちゃんは幸せだわ。純ちゃんはこれからの人生を大切にしてください」荒瀬はうわずった声で言った。
 「そうでしょうけど、そう簡単には諦められないでしょう」鹿田の口調に苦笑いが混じった。
 もう剛史のためには十分尽くしたし、これからは自分のための人生を生きたい、と相反する思いが毎日心の中で綱引きする。剛史が自分へ注ぐ愛情を思うと、鹿田は剛史を忘れることができない。
 「剛ちゃんは私の大切な息子ですけれども、剛ちゃんのことで純ちゃんには迷惑をかけたくないわ」荒瀬はよき古き時代の人の気質を見せた。
 「迷惑じゃないわよ」鹿田は思わず口を尖らした。「私が選んだ道ですもの。待ちたくなければ待たないわ」
 「気持ちは嬉しいけど、純ちゃんは自分を剛史ちゃんという呪縛から解放したほうがいいじゃないかしら」荒瀬は慎み深い眼差しで鹿田を見つめる。
 「急に言われても」鹿田は視線を窓のほうに向けた。無条件に人を愛する難しさを痛感させられた。
 「今日から自分中心に生きなさい」荒瀬の口調に有無を言わさぬ響きがあった。
 「まず気持ちを整理しなければならないわ」鹿田は即答を避けた。感情の問題は部屋の掃除のように、簡単に片付けられるものではない。
 「剛ちゃんのことを心の隅に置いといて、生きればいいのよ」
 「分かったわ。努力して見ます。おばちゃんは体を大事にしてね」
 「私は剛史が帰ってくるまで頑張るわ」
 荒瀬と夕食をした鹿田が自分のアパートに戻ったのは深夜に近かった。鹿田の顔には夜の帳のように暗い影がさしている。