出征する前日に外泊を許された剛史は母や妹と鹿田といっしょに食事をした。食後にしばらく話しをした後、母と妹は遠慮して自分の部屋に戻った。
鹿田と応接間に残された剛史は鹿田の手を取った。
「愛している。だけどやっぱり冷静に考えたほうがいいじゃないか」剛史が鹿田を見つめている。
「まだそんなことを言っているの」鹿田が眉をひそめて言った。
「愛する純ちゃんのためだ」剛史が鹿田を胸に抱いた。
「そのことはもう話したでしょう」鹿田が顔を剛史の胸に埋めた。
「私がもし帰って来られない場合、純ちゃんに幸せになってほしい」剛史が鹿田の耳元で呟いた。
「もうその話しはやめて」鹿田が泣いた。
「 。 。 。 分かった」剛史が鹿田の背中をやさしく摩った。
「絶対に帰って来て」鹿田が顔を上げて剛史を見た。
「絶対に帰ってくる」剛史が決意を新たにした。
「約束ね」鹿田がもう一度確認をした。
「約束する」剛史が強く鹿田を抱いた。
「三回目の約束ですよ。約束を守ってね」鹿田が手で剛史の顔をやさしく撫でた。
「へえ、三回も約束をした」剛史が目を丸くして鹿田を凝視する。
「一回目は結婚を申し込んだ時。二回目はこの前。今のは三回目。私を幸せにする、と言ったでしょう。帰ってくれば幸せになります。だから帰って来て、ねえ」鹿田が一点の曇りのない瞳で剛史を見つめ返している。
「よしッ、絶対に純ちゃんのために帰って来る」剛史が力を込めて言った。
翌日、剛史が出発した。二、三月後に鹿田宛の最初のハガキが届いた。戦場を転々としているせいか、その後は便りはだんだん少なくなっていた。
荒瀬の前で強気なこと言った鹿田は荒瀬の家を出ると、弱気になって落ち込んでいる。剛史は必ず帰ってくる、と自分に言い聞かしている鹿田も、時が経つと自信が揺らぐ時もある。五年間は人類にとっては一瞬にすぎないが、一人の人間にとっては重要な歳月。年頃の女性にとってはかけがえのない期間。待つのは問題ではないけど、剛史がもし帰国しなければ、待つ意味があるのか、と最近自問するようになった。鹿田は自分の変な思いを振り切るような、頭を振った。
パン屋の商売は繁盛している。特に甘い菓子パンはよく売れる。戦後は砂糖が不足していて、甘い物の需要が高い。菓子パンを買うために、早朝から並ぶ人もいる。
お客さんの中にいつも服装を整えている三十ぐらいで、吉井馨という男性がいる。吉井は来る度にかならず鹿田と言葉を交わす。吉井の熱い視線を感じるが、意中の人がいる鹿田は吉井をお客さんの一人としか見ていない。
この日は朝から大雨が降っていて、いつもよりお客さんが少ない。吉井が来た時は他の店員が遅めの昼休みをしている。鹿田だけが店番をしている。
「こんにちは。あんパンを十個ください」吉井は鹿田の顔を見ると、自然と表情が綻ぶ。
「いらっしゃいませ。今日は大目ですね」鹿田は袋に入れたあんパンを渡した。吉井は普段五個ぐらいしか買わない。
「甥と姪がきています。十個じゃ足りないかもしれない」吉井が笑った。
「子供はよく食べますからね」鹿田が愛想笑いをした。
「今の子供は幸せ。甘い物がたくさん食べられて」吉井が感慨を込めて言った。
「戦争中よりは本当に大分よくなったわ」戦争中の食糧難を経験した鹿田はそのことを痛切に実感している。
「食べられることはいいことですよ。ところで鹿田さんは仕事は何時に終わりますか」吉井が熱い視線を鹿田に向けた。
「 。 。 。 どうしてですか」鹿田はとぼけた顔をしている。女性の勘で次の質問の内容は想像できる。
「食事にでも行きませんか。迎えに来ます」吉井が鹿田の顔を窺った。
「すみません」鹿田が頭を振った。
「いいじゃないですか。たまには」吉井は簡単には諦めるつもりがない。
「お客さんと外出しちゃ行けないわ」鹿田はもっともらしい理由をあげた。
「誰も知らないよ」吉井が最後まで粘るつもりでいる。
「 。 。 。私には彼氏がいます」鹿田は言いたくないことを言った。
「ただの食事だからいいじゃないですか。彼氏は中国にいますよね」吉井は事情は知っているという目で鹿田を見据えている。
「どうして知っているのですか」鹿田が息を飲むように吉井を見つめる。
「話しを聞いた」吉井が含み笑いをした。「行きましょうよ」
鹿田が黙ってかぶりを二、三度振った。
「まあ、いつか来てください」他の店員が帰ってきたのを見て、吉井は引き下がらざるを得なかった。
吉井は毎日来るようになった。他の店員がいない時は鹿田にプレゼントや花をあげる。鹿田が断っても吉井がおいて帰るので、鹿田は仕方なく受け取る。店員に知られないように作業服の袋の中に素早く入れるが、吉井の狙いが鹿田であることはすぐ噂になった。
吉井は長期戦に備えているようだ。鹿田とは雑談するが、誘わない。十二分にいい印象を与えてから、隙を見て付き合いを申し込む作戦。自分の意志意向が尊重されて、鹿田はかえって変な圧力を感じる。
仕事を終えて、友達と荻窪駅前の行列ができる有名なラーメン屋でラーメンを食べた後、駅前で友達と別れた。鹿田のアパートは荻窪と西荻窪の真ん中にあり、歩いて行ける。駅前には露店が出ている。闇物質を売っている。お金さえあれば何でも買える。
鹿田は露店の商品を覗きながらゆっくり歩いている。鹿田はやっぱり他の女性のように、特に洋服に興味を持っている。終戦後は一遍に花が咲いたように、洋服の色や模様が増えて、女性の購買欲を刺激する。中には給料一月分もする洋服がある。安給料の鹿田が買えるものではない。見るだけでも楽しい。目の保養になる。
「お嬢さん、手相占いはいかがですか」露店の商品に目を奪われている鹿田の前に白髪の年寄りが立ちはだかっている。
鹿田が軽く頭を振って無視した。
「当たりますよ」占い師が通過しょうとする鹿田を止めようとした。
鹿田は占い師の伸びた手から逃れるように、歩を早めた。占いには興味があるが、いまは気持ちに余裕がない。剛史のことで何回も占ってもらったことがある。当たったためしがない。最近は占いを信じなくなった。
「悩みありますよね。解決してあげます」占い師は商売根性がある。狙ったお客さんは絶対に逃さない感じ。
鹿田は黙って歩いている。悩みを占い師が解決できれば、世の中は悩みがなくなる、と鹿田は心の中で笑っている。
「お客さんは人を待っているじゃないですか」占い師が声をあげた。
はっとした鹿田が足を止めた。振り返って占い師をじっと見つめている。
「どうぞ、座ってください」占い師が自分の前にある椅子を指した。
当たる占い師に見てもらうのも運のうち、と言われたことがある。ひょっとしたらこの占い師は本物、と鹿田が思考を巡らしている。
「どうぞ」占い師がもう一度催促をした。
少し躊躇ってから鹿田が歩を進めて、占い師の前に座った。
占い師が鹿田の両手を取って、掌の線を一通り観察してから、鹿田の性格を説明し始めた。性格は明るくて、積極的。独立心が強い。言い換えれば、頑固一徹。一旦決めたら、梃子でも動かない。人情家で涙ぼろい。友達のためには損することでもする。仕事運は三十代になってからよくなる。将来は子供が二人できる。
話しを聞いた鹿田はがっかりした。似たような話しは何回も聞かされたことがある。こういう話しならわざわざ占ってもらう必要がない、と鹿田は期待を大きく裏切られたような気がした。
「兄さんはいますよね」占い師が突然話題を換えた。
鹿田が驚いて座り直した。亡くなった母から兄が生まれてまもなく死亡した話しを聞いたことがある。このことは両親と自分しか知らない。鹿田は婚約者の剛史にも話したことがない。占い師に指摘された鹿田はびっくりして占い師を見返した。
「いますか」占い師がもう一度聞いた。
「 。 。 。 はい」我に返った鹿田が頷いた。
「お客さんは七歳の時に、交通事故に遭いませんでした」
「遭いました」どうして分かるのですか」鹿田が七歳の時、自転車に轢かれて大けがしたことがある。
「手に書いてあります。お客さんの手相は総合的にいい手相です」占い師が鹿田の手を見ながら言った。
「先生、私 。 。 。 待っている人がいます。その人はいつ帰ってくるのですか」こういう私事は本当は見知らぬ人に聞きたくないが、占い師にはもう二度会うことがない。わりと抵抗なく聞けた。
占い師はしばらく鹿田の手を眺めてから顔をあげた。「帰ってくるまでに相当時間がかかります」
「そうですか」鹿田が肩を落とした。
「でも良縁があります」占い師が慰めるように言った。
「相当時間がかかるって、どのぐらいですか」頭の中に剛史のことしかない鹿田は他の良縁に興味がない。
「そうですね」占い師はもう一度鹿田の手を確かめた。「三ヶ月以内に帰ってこなければ、三年。その後は三十年」
「この三ヶ月が大事な時期ですね」
「そうですけど、お客さんの手相と人相を見ますと、三ヶ月より三年。三年より三十年じゃないですかね。お客さんの恋愛運はあまりよくありません。相手のために苦労します。お客さんには言いにくいことですけれども、私はお金を頂いていますので、見たことを正直に言う責任があります」
「三年か三十年」鹿田の顔が曇ってきた。
「今を大切にすることを心がけたほうがいい、と思います」
鹿田が問いかけるように顔をあげて占い師を見た。
「待つ人はなかなか現れないが、目の前にいい人がいます。この一期一会の機会を大切にしたほうがいい、と思いますけど」
「待つ時間を短縮することはできますか」鹿田は目の前の良縁よりも明日の剛史。方法があれば剛史を早く帰国させたい。
「これだけは運命だからね」占い師が苦笑いをした。「私は運命を見ることができても、変えることはできない。労力を費やして運命を変えるよりも、持っているものを生かすだけで結構幸せになります。運命を知ることで、運命の枠内で自分の人生を改善することができます。運命そのものを変えるのは難しい。できるなら私はしてあげたい。私もお客さんの幸せを願っています。できるのは神様だけじゃないですか」
「そうですか」思っていた通りの解答だったが、鹿田の顔に失望の色が浮かべた。
「人生は山あり、谷あり。皆苦労します。前向きに生きていくしかありません。私はたくさんの人の手相人相を鑑定しました。お客さんの恋愛運は少々悪いですが、全体としてはいい手相人相です。頑張ってください」占い師が落ち込んでいる鹿田を元気づけた。
「ありがとうございます」鹿田が頭を下げた。
鹿田と応接間に残された剛史は鹿田の手を取った。
「愛している。だけどやっぱり冷静に考えたほうがいいじゃないか」剛史が鹿田を見つめている。
「まだそんなことを言っているの」鹿田が眉をひそめて言った。
「愛する純ちゃんのためだ」剛史が鹿田を胸に抱いた。
「そのことはもう話したでしょう」鹿田が顔を剛史の胸に埋めた。
「私がもし帰って来られない場合、純ちゃんに幸せになってほしい」剛史が鹿田の耳元で呟いた。
「もうその話しはやめて」鹿田が泣いた。
「 。 。 。 分かった」剛史が鹿田の背中をやさしく摩った。
「絶対に帰って来て」鹿田が顔を上げて剛史を見た。
「絶対に帰ってくる」剛史が決意を新たにした。
「約束ね」鹿田がもう一度確認をした。
「約束する」剛史が強く鹿田を抱いた。
「三回目の約束ですよ。約束を守ってね」鹿田が手で剛史の顔をやさしく撫でた。
「へえ、三回も約束をした」剛史が目を丸くして鹿田を凝視する。
「一回目は結婚を申し込んだ時。二回目はこの前。今のは三回目。私を幸せにする、と言ったでしょう。帰ってくれば幸せになります。だから帰って来て、ねえ」鹿田が一点の曇りのない瞳で剛史を見つめ返している。
「よしッ、絶対に純ちゃんのために帰って来る」剛史が力を込めて言った。
翌日、剛史が出発した。二、三月後に鹿田宛の最初のハガキが届いた。戦場を転々としているせいか、その後は便りはだんだん少なくなっていた。
荒瀬の前で強気なこと言った鹿田は荒瀬の家を出ると、弱気になって落ち込んでいる。剛史は必ず帰ってくる、と自分に言い聞かしている鹿田も、時が経つと自信が揺らぐ時もある。五年間は人類にとっては一瞬にすぎないが、一人の人間にとっては重要な歳月。年頃の女性にとってはかけがえのない期間。待つのは問題ではないけど、剛史がもし帰国しなければ、待つ意味があるのか、と最近自問するようになった。鹿田は自分の変な思いを振り切るような、頭を振った。
パン屋の商売は繁盛している。特に甘い菓子パンはよく売れる。戦後は砂糖が不足していて、甘い物の需要が高い。菓子パンを買うために、早朝から並ぶ人もいる。
お客さんの中にいつも服装を整えている三十ぐらいで、吉井馨という男性がいる。吉井は来る度にかならず鹿田と言葉を交わす。吉井の熱い視線を感じるが、意中の人がいる鹿田は吉井をお客さんの一人としか見ていない。
この日は朝から大雨が降っていて、いつもよりお客さんが少ない。吉井が来た時は他の店員が遅めの昼休みをしている。鹿田だけが店番をしている。
「こんにちは。あんパンを十個ください」吉井は鹿田の顔を見ると、自然と表情が綻ぶ。
「いらっしゃいませ。今日は大目ですね」鹿田は袋に入れたあんパンを渡した。吉井は普段五個ぐらいしか買わない。
「甥と姪がきています。十個じゃ足りないかもしれない」吉井が笑った。
「子供はよく食べますからね」鹿田が愛想笑いをした。
「今の子供は幸せ。甘い物がたくさん食べられて」吉井が感慨を込めて言った。
「戦争中よりは本当に大分よくなったわ」戦争中の食糧難を経験した鹿田はそのことを痛切に実感している。
「食べられることはいいことですよ。ところで鹿田さんは仕事は何時に終わりますか」吉井が熱い視線を鹿田に向けた。
「 。 。 。 どうしてですか」鹿田はとぼけた顔をしている。女性の勘で次の質問の内容は想像できる。
「食事にでも行きませんか。迎えに来ます」吉井が鹿田の顔を窺った。
「すみません」鹿田が頭を振った。
「いいじゃないですか。たまには」吉井は簡単には諦めるつもりがない。
「お客さんと外出しちゃ行けないわ」鹿田はもっともらしい理由をあげた。
「誰も知らないよ」吉井が最後まで粘るつもりでいる。
「 。 。 。私には彼氏がいます」鹿田は言いたくないことを言った。
「ただの食事だからいいじゃないですか。彼氏は中国にいますよね」吉井は事情は知っているという目で鹿田を見据えている。
「どうして知っているのですか」鹿田が息を飲むように吉井を見つめる。
「話しを聞いた」吉井が含み笑いをした。「行きましょうよ」
鹿田が黙ってかぶりを二、三度振った。
「まあ、いつか来てください」他の店員が帰ってきたのを見て、吉井は引き下がらざるを得なかった。
吉井は毎日来るようになった。他の店員がいない時は鹿田にプレゼントや花をあげる。鹿田が断っても吉井がおいて帰るので、鹿田は仕方なく受け取る。店員に知られないように作業服の袋の中に素早く入れるが、吉井の狙いが鹿田であることはすぐ噂になった。
吉井は長期戦に備えているようだ。鹿田とは雑談するが、誘わない。十二分にいい印象を与えてから、隙を見て付き合いを申し込む作戦。自分の意志意向が尊重されて、鹿田はかえって変な圧力を感じる。
仕事を終えて、友達と荻窪駅前の行列ができる有名なラーメン屋でラーメンを食べた後、駅前で友達と別れた。鹿田のアパートは荻窪と西荻窪の真ん中にあり、歩いて行ける。駅前には露店が出ている。闇物質を売っている。お金さえあれば何でも買える。
鹿田は露店の商品を覗きながらゆっくり歩いている。鹿田はやっぱり他の女性のように、特に洋服に興味を持っている。終戦後は一遍に花が咲いたように、洋服の色や模様が増えて、女性の購買欲を刺激する。中には給料一月分もする洋服がある。安給料の鹿田が買えるものではない。見るだけでも楽しい。目の保養になる。
「お嬢さん、手相占いはいかがですか」露店の商品に目を奪われている鹿田の前に白髪の年寄りが立ちはだかっている。
鹿田が軽く頭を振って無視した。
「当たりますよ」占い師が通過しょうとする鹿田を止めようとした。
鹿田は占い師の伸びた手から逃れるように、歩を早めた。占いには興味があるが、いまは気持ちに余裕がない。剛史のことで何回も占ってもらったことがある。当たったためしがない。最近は占いを信じなくなった。
「悩みありますよね。解決してあげます」占い師は商売根性がある。狙ったお客さんは絶対に逃さない感じ。
鹿田は黙って歩いている。悩みを占い師が解決できれば、世の中は悩みがなくなる、と鹿田は心の中で笑っている。
「お客さんは人を待っているじゃないですか」占い師が声をあげた。
はっとした鹿田が足を止めた。振り返って占い師をじっと見つめている。
「どうぞ、座ってください」占い師が自分の前にある椅子を指した。
当たる占い師に見てもらうのも運のうち、と言われたことがある。ひょっとしたらこの占い師は本物、と鹿田が思考を巡らしている。
「どうぞ」占い師がもう一度催促をした。
少し躊躇ってから鹿田が歩を進めて、占い師の前に座った。
占い師が鹿田の両手を取って、掌の線を一通り観察してから、鹿田の性格を説明し始めた。性格は明るくて、積極的。独立心が強い。言い換えれば、頑固一徹。一旦決めたら、梃子でも動かない。人情家で涙ぼろい。友達のためには損することでもする。仕事運は三十代になってからよくなる。将来は子供が二人できる。
話しを聞いた鹿田はがっかりした。似たような話しは何回も聞かされたことがある。こういう話しならわざわざ占ってもらう必要がない、と鹿田は期待を大きく裏切られたような気がした。
「兄さんはいますよね」占い師が突然話題を換えた。
鹿田が驚いて座り直した。亡くなった母から兄が生まれてまもなく死亡した話しを聞いたことがある。このことは両親と自分しか知らない。鹿田は婚約者の剛史にも話したことがない。占い師に指摘された鹿田はびっくりして占い師を見返した。
「いますか」占い師がもう一度聞いた。
「 。 。 。 はい」我に返った鹿田が頷いた。
「お客さんは七歳の時に、交通事故に遭いませんでした」
「遭いました」どうして分かるのですか」鹿田が七歳の時、自転車に轢かれて大けがしたことがある。
「手に書いてあります。お客さんの手相は総合的にいい手相です」占い師が鹿田の手を見ながら言った。
「先生、私 。 。 。 待っている人がいます。その人はいつ帰ってくるのですか」こういう私事は本当は見知らぬ人に聞きたくないが、占い師にはもう二度会うことがない。わりと抵抗なく聞けた。
占い師はしばらく鹿田の手を眺めてから顔をあげた。「帰ってくるまでに相当時間がかかります」
「そうですか」鹿田が肩を落とした。
「でも良縁があります」占い師が慰めるように言った。
「相当時間がかかるって、どのぐらいですか」頭の中に剛史のことしかない鹿田は他の良縁に興味がない。
「そうですね」占い師はもう一度鹿田の手を確かめた。「三ヶ月以内に帰ってこなければ、三年。その後は三十年」
「この三ヶ月が大事な時期ですね」
「そうですけど、お客さんの手相と人相を見ますと、三ヶ月より三年。三年より三十年じゃないですかね。お客さんの恋愛運はあまりよくありません。相手のために苦労します。お客さんには言いにくいことですけれども、私はお金を頂いていますので、見たことを正直に言う責任があります」
「三年か三十年」鹿田の顔が曇ってきた。
「今を大切にすることを心がけたほうがいい、と思います」
鹿田が問いかけるように顔をあげて占い師を見た。
「待つ人はなかなか現れないが、目の前にいい人がいます。この一期一会の機会を大切にしたほうがいい、と思いますけど」
「待つ時間を短縮することはできますか」鹿田は目の前の良縁よりも明日の剛史。方法があれば剛史を早く帰国させたい。
「これだけは運命だからね」占い師が苦笑いをした。「私は運命を見ることができても、変えることはできない。労力を費やして運命を変えるよりも、持っているものを生かすだけで結構幸せになります。運命を知ることで、運命の枠内で自分の人生を改善することができます。運命そのものを変えるのは難しい。できるなら私はしてあげたい。私もお客さんの幸せを願っています。できるのは神様だけじゃないですか」
「そうですか」思っていた通りの解答だったが、鹿田の顔に失望の色が浮かべた。
「人生は山あり、谷あり。皆苦労します。前向きに生きていくしかありません。私はたくさんの人の手相人相を鑑定しました。お客さんの恋愛運は少々悪いですが、全体としてはいい手相人相です。頑張ってください」占い師が落ち込んでいる鹿田を元気づけた。
「ありがとうございます」鹿田が頭を下げた。
