六つの夢

              夢二
 鹿田純子が急いで荒瀬の家の方向に歩いている。久しぶりに訪問するように、との手紙をもらって、心がうきうきしている。今度こそいい話しがあるかも知れない、と期待している。もう五年も待ち続けきたから、そろそろ吉報があってもいいごろ。五年間は長いようで、短い。アッと言う間に過ぎていた。飲兵衛が知らぬうちに酔っぱらってしまうように、人間はいつの間にか年をとってしまう。もう二十五才になった鹿田は結婚適齢期。周りの人がにわかにうるさくなってきたが、鹿田は雑音に惑わされることなく、初志を貫いている。
 荒瀬の家は国分寺駅から歩いて十分のところにある。築三十年程度の木造の家はもうぼろぼろ。男がいない荒瀬家は家を修復する人がいない。職人を雇う余裕もない。荒瀬剛史が出征する前は家の修復は剛史の仕事だった。出征してからはお母さんと妹二人しかいなくなり、掃除はできても修復はできない。戦後、妹たちがお嫁に行ってから、一人で住むお母さんは食糧難もあって、生きていくだけで精一杯。家を修繕するお金も気力もない。 剛史ちゃんが帰ったら家を改造する、とお母さんはいつも言う。落ちぶれているこの家族を象徴するかのように、建物は心なしか、傾斜しているかのように見える。
 鹿田の足音を聞こえたのか、鹿田が戸を叩く前に荒瀬郁子が扉を開けた。
 「いらっしゃい」荒瀬が嬉しそうに顔を綻ばした。
 「叔母ちゃん、こんにちは。元気ですか」鹿田が白い歯を見せて笑った。
 「なんとかやっているわ」荒瀬が溜息をついた。「純ちゃんは」
 「お陰さまで元気です。足は大丈夫ですか」鹿田が荒瀬の膝に目を向けた。
 荒瀬の右膝が悪くて、歩行がだんだん難しくなっている。
 「多少痛いけど、まだ歩けるわ」荒瀬が屈めて膝を摩った。「剛ちゃんが帰ってくるまで頑張らなければ行けないわ」
 応接間に座った鹿田にお茶を出した後、荒瀬が鹿田の向かいに腰を下ろした。
 「戦争は終わったけど、生活はよくならないわね」荒瀬が長い溜息を漏らした。
 「すぐにはよくらないわ」働いている鹿田は生活の厳しさをよく知っている。
 海外からの引揚者や復員兵が大量に帰国して、町中が失業者で溢れている。
 「こんな生活、いつまで続くかしら」荒瀬が押し殺した声で呟いた。 
 働けない荒瀬は近くに住んでいる娘の援助を受けている。さもなければ路頭に彷徨っているはず。
 「叔母ちゃん、剛史さんの消息ありますか?」鹿田が一番聞きたいことを聞いた。
 「ありません」荒瀬が頭を振った。
 「そうですか」鹿田ががっくりと項垂れた。期待していただけに、余計に失望に打ちひしがれる。
 「剛史のことで純ちゃんに話したいことがあるのよ」荒瀬が片瀬の瞳を見つめている。
 「どういう話しですか」鹿田が荒瀬の訳ありげな表情を読み取ろうとする。
 「剛ちゃんが終戦後二年を含め、中国に行ってから五年も経ちました。剛ちゃんからの便りがぜんぜんありません。生きているのかどうか分かりません。親としてはどこかで生存している、と堅く信じています。いつかは帰国する、と祈っています。けれども、帰国できても、健全な体とは限らない。純ちゃんが剛ちゃんを待ってあげるのは親として嬉しい。私も純ちゃんのようなお嫁さんに来て欲しいが、純ちゃんも年頃ですし。剛ちゃんが早く帰国しなければ、純ちゃんに申し訳ないわ。純ちゃんは自分の幸せを考えたほうがいいじゃありません」荒瀬が一気に喋った。
 鹿田は剛史が出征する前の婚約者。剛史が中支派遣軍の一兵卒として中国に渡る前に、必ず帰ってきて、鹿田をお嫁に迎える、と誓った。鹿田も剛史が帰国するまで待つ、と堅く約束をした。
 「剛史さんはかならず帰ってきます」こういう話しになる、と想定していなかった鹿田が少し狼狽したが、きっぱりと言った。
 「純ちゃんの気持ちが本当に嬉しいわ。私も剛ちゃんがかならず帰ってくる、と思うわ。でもいつになるのか分からないのよ。これ以上純ちゃんを待たすのはよくありません」女性である荒瀬は、女性が輝く期間が短いであることをよく知っている。歳月は人を待たず。剛史の運命がいまだに定まらないまま、鹿田をいつまでも待たすことに忍びない。
 それに鹿田の両親は戦争中に亡くなって、鹿田は親戚もなく一人で生活している。鹿田の将来のことも考えなければならない。
 「ありがとう。でも私は待ちます」鹿田が躊躇せずに言った。
 「 。 。 。ありがとう。剛史ちゃんは幸せけど、純ちゃんには本当に悪いわ」荒瀬が申し訳なさそうな様子で言った。
 「そんなことないわ。私が待ちたいからです。剛史さんは帰ってきます。私は信じています」鹿田の口調は穏やかだが、その目にははっきりと不退転の決意が宿っている。
 「ありがとう。剛ちゃんは本当に幸せな男だわ。純ちゃんのような婚約者がいて。でもあまり無理しないでね」荒瀬が空になった鹿田の湯呑にお茶を入れた。
 「無理しないわ。私は剛史さんのことしか考えていません」鹿田が強い意志のこもった視線を荒瀬に向けた。
 「ありがとう」荒瀬が感に堪えぬような様子で言った。
 戦争が終わってから、動員された軍人はぞくぞくと海外から帰国している。全員が日本に帰ってこられるわけではない。戦死した人もいるし、体に傷を負った人もいる。帰国した人の中には、約束していた彼女が既に結婚した女性が相当いる。万死の中に一生を得てからまた失意のどん底に落ちて行くことになる。女性だけを責めるわけには行かない。鹿田のように最後まで意中の人を待つ、と言う人は少なくなっている。
 鹿田を玄関まで送った荒瀬が励ますように鹿田の肩に手をかけた。「毎日祈っています。剛史ちゃんと純ちゃんのために」
 「ありがとう」荒瀬の言葉は鹿田の胸にズシンと響いた。

 赤紙、すなわち軍隊の召集令状が二十五才の剛史に送付されたのは昭和十七年。剛史が商業学校を卒業すると、西荻窪駅前の大きいパン屋に就職した。鹿田は一年後に同じ会社に入社した。二人は遭った時から意気投合して、よくいっしょにお茶を飲んだり、食事をしたりした。
 二人が付き合ってから一年後に結婚を決めたが、戦局がだんだん日本に不利に展開して、召集令状がいつ来るのか分からないのような状況の中で、二人は結婚に踏みきれなかった。
迷っている時に、赤紙が送られてきた。
 出征が決まった後に剛史が鹿田に言った。「中支に派遣されれば、生きて帰ってこられるのかどうか分からない。純ちゃんは俺のことを忘れたほうがいい」
 「なにを言っているのよ。頑張って帰ってきてください。待っています」鹿田が窘めるように言った。
 「純ちゃんの気持ちはありがたいけど、純ちゃんを不幸にしたくない」剛史が溜息をついた。愛する女性を幸せにしたいが、無力感に襲われている。どんな人でも時勢という魔物には勝ってない。
 「私は幸せです」鹿田が剛史に熱い視線を投げる。
 「俺が帰って来なかったらどうする」剛史ももちろん無傷で帰って来たい。現実はそう甘くはない。戦場で散った兵士はいくらでもいる。先日も隣の夫婦が出征した息子の訃報に接して泣き崩れた。他人事ではないと、胸が痛くなった。
 「その時になったら考えるわ」鹿田は剛史の視線から逸らさずに言った。
 「純ちゃんはバカな女ですか」鹿田の強い想いが剛史の気持ちを複雑なものにした。嬉しい反面、申し訳ない気持ちでいっぱい。
 「バカでいいです。私は待っています。剛史さんは頑張って帰ってきてください。いっしょに頑張りましょう」鹿田が剛史の手を強く握った。
 「分かった。必ず帰ってくる。待っていてくれ」剛史が力強く言った。
 「約束します?」
 「約束する」

 鹿田は剛史のために他の女性と駅前に立って、通りがかりの女性に白地の布に針を通してもらい、千人針を作った。更に剛史のために徹夜をして、自分でお守りを作った。かならず帰ってくるように、と願いを込めてお守りを完成させた。
 出征兵士剛史の壮行会は町内の会館で盛大に行われた。「祝・出征荒瀬剛史君」「武運長久」と書かれた幟が所狭し、と立てられていた。町内の会長や年寄りを含め、たくさんの人たちが励ましの言葉を送った。皆が出征兵士を送る歌を合唱した後、剛史が皆の前で勇ましく露営の歌を歌った。
 
勝ってくるぞと、勇ましく
 誓って故郷を 出たからは
 手柄たてずに 死なりょうか
 進軍ラッパ 聞くたびに
 まぶたに浮かぶ 旗の波

何番もあるこの歌を最後まで熱唱する剛史を見て、鹿田は感傷的になり、瞳が潤んでいた。熱唱に会場は大興奮。