六つの夢

 八戸は疲れた体を引きずりながら駅を出た。この一週間夜十一時になると寝て、朝目覚めるのは七時ごろ。八時間寝るので体の調子がいい。余裕を持って通勤することができた。駅へ競技者のように走る必要がなくなった。遅刻もしていない。この記録を伸ばしたい。夏のボーナスは全額をもらえそう。ボーナスのことを思うと、八戸の顔に自然と微笑みが浮かぶ。夏は大学の同級生とヨーロッパへ行く。ヨーロッパは初めてではないが、何回行っても飽きない。ヨーロッパの国々はそれぞれ長い歴史と独自の文化を持っている。八戸はそういうものに心引かれる。久しぶりに羽を伸ばすことができる。
 この日は金曜日。ゆっくりお風呂に入ってから寝る。八戸は長風呂。入浴に一時間くらいかける。八戸にとって、お湯の中でボウッとするのが人生の最大の楽しみの一つ。
「今晩は」
 後から声をかけられた八戸は振り向いた。例の男が駅の外に出ようとしている。八戸が朝早めに駅へ行くようになってから、駅でこの男に会っていない。この日は久しぶりに男に会った。
三という数字は日本人のマジック・ナンバー。三人寄れば文殊の知恵。三人娘。三本柱。三羽ガラス。三度目の正直。この人とは駅で三回目の遭遇。これはやっぱり縁?八戸は不思議な感じがした。
「今晩は」八戸はほほえみかけた。
「お帰りですか」男は歩くスピードを八戸に合わせた。
「はい」八戸が軽く頷いた。
「小泉です」男が自己紹介をした。
「八戸です」八戸は自己紹介でそれに応じた。
「この前はすみませんでした」
「いえ、あまり気になさらないでください」
「よかったらお詫びのしるしに食事でもして行きませんか」
「 。 。 。 はい」八戸は一拍をおいてから言った。女性の矜持を保つため即答したくなかった。小泉とはこれから付き合うような気がする。

 妹の元気そうな顔を見て一元はほっとした。沙織の顔を見るまで心配だった。特に沙織に関しては女の子ということから一元の心配性に拍車がかかる。
一元の家は浜松市の市立図書館の近くにある。家は二十年前にお父さんが買った。ローンはほとんど払った。慎ましい生活を送ることができる。一元、弟の秀男、沙織とお母さんは食卓を囲んでお茶を飲んでいる。これは普通のことだが、東京で一人暮らしする一元は家族の暖かさ、大切さを感じる。
沙織は前の日に退院した。検査は無事終了した。倒れた時に軽く頭を打った。懸念は頭部打撲による影響だった。脳血管検査も無事に通過。週明けには学校へ行ける。三日ほど学校へ行かなかった沙織は一日でも早く学校へ行きたい。友達に会いたい。
沙織も大好きなお兄さんを見て、弾けるような笑顔を見せた。一元はたまらず可愛い妹の頭を撫でた。
「無事でよかった」一元の全身から安堵感が滲み出ている
「軽く接触しただけで入院する必要がありませんでした」転んだだけの沙織は入院したくなかった。入院すれば学校へ行けない。友達に会えない。お母さんが無理矢理に入院と検査を受けさせた。
「やっぱり入院したほうがいい。これから自転車で通学するのをやめろう」心配症の一元は沙織の安全のため、過保護者になった、と言われても揶揄されてもかまわない、と思っている。
「自転車を使わなければ通学できなくなる」そう言われると思わなかった沙織は思わず口を尖らした。
学校へ行くバスは家の近くまで来ないし、バスを利用するほどの距離ではない。歩くにはちょっと距離がある。自転車は便利で身近な交通手段。このことは一元もよく知っている。妹の安全を優先しなければならない。
「私も自転車はやめてほしいわ。お兄ちゃん、言ってあげなさい」自転車は必要不可欠な交通手段だが、沙織が事故に遭ってからお母さんは心配するようになった。
「少し早めに起きて歩いて行けばいいじゃないか」一元はなんとか妹を説得したい。
「いやだ。友達は皆自転車で通っています」
「自転車は危ない」
「危なくありません」
「危ない。自転車の高校生がはねられて死亡した事故がある」
「歩いても引かれることがあります」
「自転車よりはいい」口答えするようになった沙織に一元は少しびっくりした。前は大兄さんの言うことを無条件に聞いていた。今は自分の意見を主張するようになった。遅れて来た反抗期のようなものかもしれない。
「皆で行くから大丈夫」沙織はこの件に関してはあまり譲る気がないようだ。
「じゃあ、約束して。かならず友達といっしょに通学する」一人で歩いて通学するより、自転車で集団通学のほうが安全かもしれない。友達といっしょに行動するのも大事。一元はあまり無理に押さないことにした。
「約束します」
 「お兄さんが言わないとだめだからね」秀男が口を挟んだ。「俺の言うことを全然聞いてくれない」
「いつも聞きます」沙織が頬を膨らした。
「聞かない」
「いつも聞きます」
「兄妹喧嘩はやめなさい。晩飯はなににします」お母さんが話題を変えた。
「沙織ちゃんの快気祝いに焼き肉を食べに行こう」一元が沙織に視線を向けた。
「行きましょう」焼き肉が大好きな沙織が手を叩いた。
はしゃぐ沙織の姿に一元は内心微笑んだ。上原のことがなんの前ぶれもなくフッと脳裏を掠めた。東京に戻ったら電話をする。彼女の声が聞きたい。早く会いたい。一元はそう思いながら皆と家を出た。