六つの夢

 八戸が駅の改札口に急いで歩いている。次の電車に乗らなければ遅刻しそうになる。いつも遅刻しそうなぎりぎりの時間に起床するのが行けない。朝通勤する時は自戒を込めて反省するけど、会社についた時はもう忘れてしまう。何度も同じ轍を踏む自分にうんざりすることがある。習慣はなかなか変えられない。だからよい習慣を身につけなければならない、と知っていながらできない。
八戸がバッグから財布が出した時に、後から凄い勢いで走って来た男の肩が八戸にぶつかった。八戸は財布を落とした。
「ごめんなさい」男は財布を拾って八戸にあげた。
 男は高級そうなスーツをビシッと身にまとい。長身で甘いマスク。知的な印象を与える。笑うと、白い歯が見えて爽やかな感じがする。
 男を見て、八戸は久しぶりにこの男とならキスしてもいい、と思った。潔癖症の八戸は男性の口の中の状態が気になる。清潔そうな感じがしなければならない。今まで、八戸が自ら進んでキスしたい男は数えるほどしかいなかった。デートした男の中にはイケメン、高学歴、高収入、高身長の人がいたけど、歯が黄色くて口内が不潔そうだった。完全に理想的な人は実在しない。理想にこだわりすぎると結婚できなくなる、自分に言い聞かした八戸は頑張ってその男と何回かデートをした。唇と唇が触れあう軽いキスは許したが、これ以上のことはさせなかった。物理的に近づいてくると、どうしても抵抗感を感じていた。とうとう別れた。
 これが運命的瞬間?と八戸は自問した。特定の彼氏がいないが、八戸はよく誘われたり、デートしたりする。始めて会った瞬間に格好いい、と思った男がいても、なにか特別なものを感じた男はいなかった。運命の人は会った瞬間に全身に電流が走る話しは聞いたことがある。体験したことはない。死ぬまでに一回は体験したい。これがひょっとしたら思わぬ場所で運命的出会い。八戸の頭の中でいろんな考えが交錯する。
「大丈夫ですか」男は申し訳なさそうな顔をした。
「あッ、はい」我に返った八戸は男から視線を逸らした。相手をじっと見つめていた自分が恥ずかしい。男の名前と携帯の番号を聞きたいが、その勇気がない。普段の自分ではいられない。
「すみませんでした」男は一礼をしてから急いで駅の中に入っていた。
八戸は呆然と去り行く男の後姿を見送った。左手の薬指に指輪がはめられているのかどうかを確認しなかったことを後悔している。

 区役所を出た一元は解放感を得たような気がする。区役所の仕事はきつくないが、単純な事務的作業。長くやると精神的に疲れる。幸い、この日は残業がなく、早く帰れる。帰ってビールを飲んでプロ野球を見る。これが一元の楽しみ。社会人になってから生活範囲が狭くなり、楽しみも少なくなった。想定内だけど、やっぱり寂しい。一番楽しいのは同窓会。多感な時期を一緒に過ごした同級生。お互いに長所も短所も知り尽くしている。なんの気兼ねもなく気取りもなく話し合える。これが一番の癒し。一番楽しい。八戸がいなければ、もっと楽しいけど。
一元は安定志向タイプ。高校の時から公務員になりたかった。安定した仕事、穏やかな毎日、平凡こそ幸せ、と今でも信じている。八戸に言わせると、積極性がない。
仕事をコツコツとやる一元は公務員に向いている、と思っているが、それでもやめたい、と考える時がある。不景気で失業率が高い時期に、贅沢なことを考えては行けない、と自分を戒めるけど、人間関係でいやな気分になると、転職が頭を掠める。
 雨が突然降り出して傘を持ってこなかった一元が慌てた。この日の天気予報で雨の予報は出されなかった。一元は区役所と駅の中間点にいる。区役所へ戻っても駅へ行ってもずぶ濡れになる。宙ぶらりんの状態で困っている。
「一元さん、入ってください」どこからともなく現れた上原は傘の中に入るように促した。上原が持っているのは女性用の傘。二人で入るにはちょっと小さめ。
「それでは二人とも濡れてしまう」一元は入るのをためらった。
「大丈夫。早く入りなさい」上原がもう一度促した。
催促された一元は仕方なく傘の中に入った。二人は肩を寄せ合うようにして歩き出した。傘幅が足りない。駅に着いた時はお互いの肩が濡れている。
「ありがとう」一元は肩についた雨粒を払い落としながら言った。
上原は肩を竦めて、恥ずかしそうに微笑んだ。
「食事に行きましょうか」一元はお礼の意味を込めて食事に誘った。
上原は小さく頷いた。
二人は駅前の居酒屋に入って、おつまみとビールを注文した。
 ジョッキを合わせて乾杯する時、上原の黒く澄んだ瞳を見て、一元の心臓が早鐘を打った。奇妙な感情が彼の心の中にわき起こった。一元にとって上原はただの後輩。特別な存在ではない。この瞬間、いつもと違う特別な感情がこみ上げて来た。なぜだろう。一元は心の中で驚いている。
 よく見ると、上原は清純そうで可愛い。目の前に素敵な女性がいる。なぜ今まで気づかなかった。灯台もと暗し。愚かな自分を心の中で罵った。一元は中学校の時に仲のよい女子同級生がいた。まったく好意を示さない一元に同級生は頭に来て他の生徒とデートをするようになった。一元が振られた時にやっと彼女の存在の大きさを理解した。悔やんでも悔やみきれないが、時すでに遅し。一元は自分の鈍感さに呆れていた。
「どうぞ」見つめられて顔に紅葉を散らした上原が一元のお皿におつまみを入れた。
「あッ、どうも」我に返った一元は慌てて上原の顔を見ないように視線をずらした。顔が真っ赤になった。女性を食い入るように見るのは初めて。
二人は食事をしながらいろんな話しをした。一元は大事な伴侶に巡り会えたような気がした。久しぶりに美味しいビールを飲んだ。

 八戸は駅に向かって走っている。普段あまり運動をしない八戸が走ると息が苦しい。体が鉛のように重く、思い通りに動かない。息切れしそうになって走りたくないが、七時五十分の電車に間に合わなければ遅刻する。昨日は五分間遅刻して、部長に怒られた。この日も遅刻すれば部長は強烈な雷を落とすに違いない。皆の前で叱られるのは格好悪い。ボーナスの査定にも響く。八戸は夏のボーナスをもらったらヨーロッパ旅行をする予定。ボーナスの削減だけは避けたい。  
 八戸は与えられた仕事をしっかりやるが、早寝早起きは大の苦手。昨夜は夜遅くまでテレビを見て、朝はいつもより三十分遅れて起床した。顔を洗っただけで慌てて家を飛び出した。余裕を持って通勤する、と毎日自分に言い聞かす。毎日十一時ごろになってからテレビが見たくなる。この時間帯はくだらない番組しかない、と知っていながらテレビの前に座ってしまう。この入眠儀式をしないと眠れないような気がする。三十分のつもりが一時間、二時間になることがよくある。テレビ依存症者になって、自分をコントロールできない。習慣は恐ろしい、と分かっていながら習慣を変えられない。生活のパターンを変えようと、何回も頑張ったことがあった。二、三週間すると、金曜日の夜から気持ちが緩んでしまう。一度緩んだ気持ちをもう一度自分自身で締め直すのは難しい。そのまま惰性的に続き、元の悪習慣に戻ってしまう。
 もうこんな辛い通勤はいや。今日から就寝前のテレビは見ない。十一時半にはかならず寝る、と八戸は走りながら自分に約束をした。自分との約束を何回も破った。今回は絶対守る、と八戸は心の中で誓った。
駅の建物が見えて、八戸はほっとした。あと二十メートルぐらい走れば駅に着く。予定より五分早く着いた。よく走った、と自分で自分を褒めてやりたい。起きてうがいをしただけ。ノーメイクで急いで家を飛び出した。水も飲まなかった。駅に着いたらボトル水を買いたい。走った後の水は美味しい、と思うと八戸は思わず失笑した。水を美味しく飲むために走ったのではない。
 キオスクでボトル水を買った八戸が踵を返して改札に向かおうとした。
「おはよう」
聞き覚えのある声に八戸が顔を上げた。例の男が目の前に立っている。笑顔が眩しい。相変わらず爽やかな感じ。
「お 。 。 。 おはよう」駅に入らなければ電車に乗り遅れる。地面に足が釘付けになって、体が動かない。頭が真っ白になる。
「この前はすみませんでした」
「いいえ、とんでもないです」
「ありがとう。急いでいますので、これで失礼します」男はそう言った後、急いで改札口に向かった。
咄嗟のことで八戸はどうしたらいいのか分からない。しばらくそのまま立ちすくむ。電車の音で我に返った八戸は急いで駅の中に入った。

 トイレの中にいる一元は電話の鳴る音を聞いて、急いで用を足して出てきた。
「もしもし」一元の呼吸が少し荒い。
「将ちゃん」
「はい、お母さん!」
「大丈夫。息が荒いですけど、外から戻ってきたの」
「いえ、大丈夫」
「沙織ちゃんがね 。 。 。 」お母さんが心配そうな声で言った。
 一元には大学二年の弟秀男と今年中学三年生の妹沙織がいる。沙織とは十歳離れている。一元は子供の時から沙織を特に可愛がっていた。お父さんが4年前になくなってから、一元が一家の主的存在となった。お母さんが家族のことや弟と妹の教育のことなどでよく一元に意見を求める。
「沙織ちゃんがどうした」一元は不吉な予感がした。
沙織になにかがあれば、お兄さんとして責任を感じる。仕事とはいえ、一番大事な時期に傍にいてあげられないことが心残り。一元が静岡県浜松市から東京の大学に進学するため上京した時、それほど離れていないが、沙織が泣いて見送った。落ち着いたら一旦帰る、と約束した。沙織の涙は止まらなかった。一元は後ろ髪を引かれる思いで故郷を去った。東京の生活が落ち着いて帰省した時、沙織がうれし涙を浮かべた。
大学を卒業後、お母さんのこともあり、一元はUターン就職するつもりだった。地元の公務員試験には受からなかった。地元の民間企業への就職を考えた。特別区職員採用試験に受かった。将来、沙織の東京の大学進学を念頭に入れて、一元は望郷の念を抱きながらもUターンを諦めた。一元がボーナスをもらった最初の夏、三人を東京に呼んでディズニーランドへ連れて行った。
「入院したの」
「入院!」一元の全身に緊張感が走った。「病気?」
「事故。沙織ちゃんの自転車が車と軽く接触して、乗っていた自転車ごと倒れました。怪我したの」
「怪我!大丈夫?」
「軽い怪我だから大丈夫」
「本当?」
「本当」
「気になる」
「明後日退院します。念のために全身検査をしています。医者も問題がない、と言いました。心配する必要がないわ」
「やっぱり心配する。週末に帰ります」
「帰ってくれれば沙織ちゃんは嬉しいけど」沙織はもちろん、お母さんも長男が帰ると嬉しい。
「用事があるけど、帰ります。一回様子を見ないと安心できない」弟と妹のことになると、一元は保護者的になる。特に沙織のことになると、父親代わりとして妹を守る義務がある、と思っている。一人前の男になってもらうために弟を突き放すが、可愛い妹に対して、心を鬼することができない。
一元は上原と土曜日の夜、映画を見に行く約束をした。久しぶりのデートも大事だが、妹のことはもっと大事。かけがえのない妹。妹のほうが優先度が高い。一元は正月以来帰省していない。お母さんはいつもたまには田舎に帰りなさい、とうるさく言う。顔を見せるだけで親孝行になる。妹にも会える。まさに一挙両得。