六つの夢

 私が十才の時、両親が住んでいる五階のマンションの七階に益子一家が引っ越してきた。益子亜矢子は母の高校の時の同級生。仕事でアメリカに派遣された旦那といっしょに帰国した。七才の娘の彩花は私の学校に編入された。
 家に最初に家族で食事に来た時は、彩花がヤンキーズ・ジャンパーと野球帽を被っていて、少女というよりも、美少年のように見えた。天真爛漫な笑顔が印象的だった。人見知りをしない。いきいきしていて、いるだけで明るい雰囲気が醸し出す。太陽のように、自分の周りも明るく照らす存在。
 一瞬私と彩花の目線が合うと、彩花がにっこりと笑った。愛想笑いを返したが、私は心拍が上がって、早鐘を打つ胸の鼓動を感じた。
 「彩ちゃんは野球が好きですか」彩花の格好を見た母が聞いた。
 「男子のリットル・リーグのチームに入っていたの。野球ばっかりして、勉強しなかったわ」亜矢子が窘める口調で言った。
 「凄いじゃないの。将来はプロの選手になるかもしれないわよ」母はその場しのぎで取り繕った。
 「この子は予定日より少し早かったの。病院まで間に合わずに、自家用車の中で生まれました。主人も私も慌てましたわ。出産予定日を無視して勝手に出てきました。だから落ち着きのない個性なのよ。女の子だからもう少し落ち着いた性格になってほしいわ」
 「いいんじゃないの。明るくて。明るい女の子は人気があるわよ」
「そうでしょうけど、やっぱり女性らしくなってほしいわ。将来は看護婦になるんですって。今の子供は考えていることとやっていることは全然違うわ」亜矢子が嘆いた。
「子供が好きなようにさせれば一番いいじゃない」
 「そうでしょうけど、もう少し勉強してほしいわ」
 食卓には母が作った料理が並べてある。皆が着席した後、母は彩花に言った。「どうぞ。遠慮しないで召し上がってください」
 「頂きます」彩花が左手を伸ばして、刺身を取った。
 「左利きなの」彩花の左手をちらっと見た母の視線に気づいた亜矢子が言った。「直そうとしたけど、だめだったわ。子育ては本当に疲れるわ」
 「無理して直すことはないじゃない」母が苦笑いをした。「左利きのほうが希少価値があって、重宝されるかもしれないわよ」
 「スポーツの場合はね。普通の社会はやっぱり右利きのほうがいいと思うわ。女の子ですし」
 「長く外国で生活をしたわりには保守的ですね」
 「外国の生活が長くても、私の芯は日本的だわ」
 彩花は黙々と食べているが、目が笑っている。お母さんの愚痴は耳にたこができるほど聞いたことがあり、気にしていないようだ。
 私が唐揚げを一つ彩花の皿の上に乗せると、彩花は顔を嬉しそうに綻ばせた。
 「ありがとう」彩花が呟いた。
 嬉しそうな彩花を見て、私も訳もなく嬉しい気持ちになった。
 「話しは女性任せて、私たちは食べることにしましょう」父が益子に言った。

 益子夫婦は共働き。益子は商社マン。アメリカ西海岸の会社と貿易をやっている。日本の午後五時は向こうの朝。五時からが本番。しかも付き合いがあり、平日はまともな時間に帰宅したことがない。亜矢子は外資系金融会社に勤めている。やはり帰りが遅い。
 彩花が放課後は家に来ることになった。平日はほとんど食事までして、親が帰ってくるまでいる。たまにだけど、泊まる時もある。
 帰国子女である彩花は英語や算数は得意だが、漢字に弱い。勉強は私の部屋でいっしょにやる。私は彩花に漢字を教える時がある。
 私は本当は不勉強だが、年下の女の子といっしょに机を並べると、あまりみっともないことはできない。勉強をせざるを得なくなる。彩花のお陰で私の成績が少しよくなった。彩花はお母さんが嘆くほど勉強していないのではない。要領がいい。あまり勉強をしなくてもいい点数を取る。羨ましい限りだ。
 彩花は偏食をしない。出されたものは全部食べる。トマト以外は。トマトは一度も食べたことがないから、不思議。
 アメリカの友達が赤いトマトは噛むと血のような液体が出て、気持ち悪い、と言って食べなかった。それを聞いた自分もたべられなくなった、と彩花は言う。
 「そういうのは食べず嫌いじゃないの」ばかばかしい話しに母が笑った。
 「不味そうじゃないですか」彩花が弁解がましく言った。
 「そんなことないわよ。美味しいわよ。食べてご覧。体にいいわよ」母が勧めた。
 「いやだ」彩花が頭を強く振った。
 彩花はそれ以外のものは全部食べるので、母は無理に食べさせようとしなかった。
 両親は彩花を自分の娘のように可愛がる。私は彩花を妹のような、彼女のような複雑な気持ちで見ている。
 彩花の出現が我が家を変えた。食卓が賑やかになった。家族のコンミュニケションもスムーズになった。
 私たちはいっしょに学校に行って、いっしょに帰る。彩花は私が入っている町内の少年野球チームの低学年のチームに入部した。帰国子女でしかも最初の女の子。町内ではちょっとした話題になった。
 ショートを守る彩花は基本がしっかりしていて、守備力も打撃も一般の男の子に遜色しない。コーチも感心させられた。彩花が試合で活躍をした時は、私は自分のように喜ぶ。チームの勝敗は私には関係ない。彩花が活躍すればいい。私が試合する時は勝敗に拘るのだけれども。
 この日も私たちの高学年と低学年のチームの試合が球場を二つにして、同時に行われた。小学生の打球は飛距離がない。同時に二試合をやっても問題がない。
 私の打順に回ってこない時は、私は彩花の打撃を見る。自分の試合の結果より気になる。一打席目にヒットを打った彩花に対して、ピッチャーがやや内側にボールが投げた。うまくコントロールされていないボールに頭を直撃された彩花が倒れた。
 それを見た私はベンチを飛び出して、憤激した形相でピッチャーに向かった。私もデッドボールにぶつけられた時があるけど、今まで一度も怒ったことがなかった。彩花が倒されるのを目の当たりにして、どういうわけかカットなり、血が頭に上って、冷静さを失ってしまった。異常事態を察知した父兄が慌てて間に入り、私の突進を止めた。そうでなければ乱闘になっていたかも知れない。
 彩花が無事だ、と聞いた私は大きく胸を撫で下ろした。大事をとって、私は彩花を家に連れて帰った。

 二日後に、彩花が勉強した後、帰宅する前に私に封筒を渡した。
 「カズオさんへの手紙」彩花が私の瞳を捉えて言った。
 「手紙?」突然のことに私はどう対応すればいいのか分からなかった。
 「はい。私からの手紙です。読んでください」
 「 。 。 。 読む」私は彩花が帰った後に読むことにした。彩花の前では照れくさくて手紙を開けることができない。
 「ありがとう。また明日ね」彩花が手を振って帰った。
 手紙はこう書いてあった。「カズさん、にちようびはありがとう。彩花はとても嬉しい。カズさんは彩花のナンバーワン・ヒーローです。すなわちスーパーヒーローです。四海一雄。フォーシーズ・スーパーヒーロー。かっこういい英語の名前でしょう。これからも遊んでください」
 この簡単な手紙を私は何回も読んだ。私がもらった最初のラブ・レター。ラブ・レターと言っていいのかどうか分からないけど。私にとって、大切な手紙。読めば読むほど私は嬉しくなり、胸がときめいた。私は興奮して、その晩はなかなか眠れなかった。

 夏休みに私は彩花の両親に鎌倉の実家に招待された。夏休み中に私と彩花はいつも二人で遊んでいたから、私がごく自然と益子一家と鎌倉に行った。亜矢子の実家は海の近くにあり、私たちは毎日海へ行って遊んだ。二日ぐらいで二人とも真っ黒になり、顔はまるで別人のようになった。夜はいろんなレストランへ行って食事をした。私は夏休みを満喫した。
 この日、家で焼肉を食べた後、益子と亜矢子が後かたづけをしている時に、私と彩花はベランダで夜空を見ている。
 「カズさん、あの二つの星は見えますか」彩花が手を上げて、遠いところを指した。
 「どの星」私は星をちりばめた空を見上げた。
 「あそこ。見えます?」彩花が一生懸命に星を特定しょうとしている。
 「 。 。 。 うん」そう言われると、黒い空にわりと大きい星が二つ並んでいるような気がする。
 「あの二つの星はね、離れていましたけど、だんだん近づいてきました」
 「本当?」私はもう一回夜空を見あげた。星のことがぜんぜん分からない私は、彩花の言うことに対して半信半疑。「いつから星を見るようになった」
 「アメリカにいた時から」
 「あの時はこの二つの星がありました?」
 「うん。でも凄く離れていたの。左側がカズさん。右側が私」彩花が夢見る眼差しで夜空を見つめている。
 私は答えなかった。彩花の言うことはおとぎ話のような気がする。彩花とは将来が約束されたようで、子供ながらも胸いっぱいに幸せを感じて、足が地につかないようにうきうきしている。