六つの夢

 午後十時。
 JR新宿駅に急ぎ足で歩いて行く人が増えてきた。鳥飛ぶに倦んで、還るを知る。遊び疲れた人の帰宅時間。新宿に来た時のいきいきとした表情はない。顔に疲労感が滲み出ている。一刻でも早く帰宅して休みたいようだ。
 待ちくたびれた黒花は壁にもたれて立っている。帰る決心がつかない自分に腹が立つ。無駄骨であると知りつつ、優柔不断な自分にいらいらしてしまう。やるべきことはすべてやった。義務も責任も果たした。帰っても誰からも責められることはない。状況は絶望的だと知りながら、それでも一縷の望みを捨てられない。
 黒花君のことは一生忘れない、と出雲が言ったことがある。黒花はいまでもその真心のこもった、一点の曇りもない言葉を信じているが、あれは十年前の話し。出雲への愛情は揺らいだことはない。出雲に心境の変化はないだろうか。こんな疑問に悩まされる。待てば待つほど、考えれば考えるほど頭が混乱してしまう。
 こういう時に限って、思考が悪い方向へ傾いてしまう。
 黒花の友達の中に、彼女と小学校から中学校、高校、大学まで付き合っていた人がいる。社会人になった途端に、学生時代の恋人との関係がちぐはぐになり、結局別れてしまうカップルが相当いる。この二人は社会人になった後もよい関係を続けていた。交際十年以上。二人の結婚は時間の問題だ、と思われていたけれども、突然別れた。黒花の友人は半年デートした別の女性と結婚した。
 友人によると、社会人になってから、忙しくなり、学生時代のように頻繁に連絡をしなくなった。だんだんお互いの気持ちが離れてしまった。
「十年以上かけて築き上げた愛情は刹那のごとく、一瞬で滅びたのですか」虚しさを感じざるを得ない黒花が聞いた。
 「一瞬ではなかったが、徐々に関係が崩れていた」友人は事もなげに言った。
 「寂しくないですか。虚しくないですか」黒花は友人の気持ちが知りたい。
 「成り行きだからそれほどでもなかった」友人は平然とした様子で肩を竦めた。
 「あの付き合いはなにだったですか」黒花は真実を知りたい。
 「なにだったでしょう」友人が首を傾げた。「人生の通過点かもしれない。自分でもよく分からない」
 黒花は心情的に納得できないが、人生と同じように、愛情に答えがない。答えがないことが答え、と見なければならない。人生に不測の事態はつきもの、と考えていた。今思うと、他人事ではない。自分に起きてもおかしくない。
自分は友人のようになりたくない。自分の愛情は永遠のもの。意思は石より硬い。絶対に変わらない。出雲も同じように思っている、と信じていた。待っているうちに黒花はだんだん自信がなくなり、マイナス思考の悪循環に陥っていた。

「チョウ君、元気。座ってもいい」出雲が学校の食堂の隅に一人で座っている長沢に声をかけた。
長沢は黙って頷いた。いつも出雲を見ると嬉しそうな顔をするが、最近はふてくされた表情を見せる。長沢が出雲に好意を持つことは皆知っている。出雲と黒花が付き合っていることは周知の事実。長沢は叶わぬ恋だと知りながら、他の男の子に奪われたくない気持ちが強い。出雲に振られたようで落ち込んでいる。出雲を見ると、黒花の顔が頭に浮かぶ。黒花を思うと、やり場のない怒りがこみ上げてくる。
「なにを考えているの」座った出雲が長沢の目を直視した。
長沢が目をそらして二、三回軽く頭を振った。
「チョウ君ッ」目線を合わそうとしない長沢の注意を引こう、と出雲が語尾に力を入れた。「お願いをあるの。聞いて」
 長沢が視線を出雲に向けた。
「最近、黒花君の教科書やノートがよく隠されたり、捨てられたりするの。チョウ君の力でなんとかなりません」
最近、黒花がちょっとしたことで教室を出ると、教科書やノートが隠されたり、そういうものに落書きされたりすることが多くなった。先生は何回も注意をしたが、陰湿な悪戯をする生徒を特定できず、解決に到っていない。
「そういうことは先生に言ったほうがいいじゃないか」長沢はぶっきらぼうに言った。彼氏のために俺にお願い事をする。小学校からこの日まで同じ学校だけど、俺のためになにもしなかった。そう思うと長沢は心の中に怒りを感じて、表情が険しくなった。
「先生が解決できないからチョウ君にお願いをするのよ」
「俺にはそんな力がない」
「チョウ君ならできるわ」
「買いかぶりだ」
「そんなことないわ。お願いだからやって。これでは黒花くんはまともに授業を受けることができないでしょう」
「優秀だから授業を受けなくていいだろう」
「そういうことじゃないでしょう」
「どういうこと」
「クラス全員が授業をちゃんと受けられるようにしなければならないの」責任感が強い出雲は学級委員長の責任を果たさなければならない。
「誰がやったのか分からない」
「でもチョウ君が言えば皆聞くでしょう」
「そんなことない」
「大丈夫、チョウ君の言うことなら皆聞きます」
「玲奈ちゃんも俺の言うことを聞くのか」
「 。 。 。 」長沢の言外の意を感じ取った出雲は返答に窮した。
「聞いてくれるなら動いてもいい」
「 。 が 。 。 学校のことなら聞きますわ」
「学校のことは先生の責任。俺は玲奈ちゃんのことを言っている」
「個人のことなら 。 。 。 内容によります」長沢の好意は分かるが、出雲は受け入れられない。長沢は小学校の時から出雲に近づこうとした。出雲は彼を同級生としか見ていなかった。今も同級生と友達の域を超えていない。出雲も実らぬ片思いを経験したことがあり、長沢の心境は手に取るように分かる。これは気持ちの問題。
どうしょうもない。
「内容によりますか!もう話すことがない」出雲の真意がいかなるものかは火を見るより明らか。長沢は怒りと落胆が交錯している。
「クラスのために 。 。 。 」
 出雲が言い終わる前に長沢が立ち上がってきびすを返して食堂を出た。出雲は大きく深いため息をついた。

 黒花は口元に微笑みを浮かべて、出雲との楽しいデートの余韻に浸っている。日曜は野球の試合をした後、出雲と食事をしたり、勉強をしたりするのが定番となった。好きな人といっしょに勉強をすると、楽しい。質のいい競争をして勉強が進む。
 試合が朝の時は試合終了後にいっしょに昼飯を食べてから、区の図書館で勉強する。この日の試合は午後二時。延長戦になり、終わったのは午後五時ころだった。二人は新宿へ行ってピザーを食べた。食事後は喫茶店でいろいろと楽しく話し込んで気がついたらもう午後九時過ぎ。急いで帰宅することにした。
 黒花が一番心配しているのはお父さんが一年か二年後にまた人事異動により、他の地域に配属されること。出雲と別れたくない。中学校を卒業した後は同じ高校と大学に行きたい。出雲も英文科に入りたい、と言った。いっしょに英文科で勉強したい。お父さんの人事異動は気になるが、考えれば考えるほど出雲との将来が明るく見える。幸せな未来が見える。そう思うと、自然と微笑みが顔に浮かぶ。
「おい、なにをニヤニヤしている」長沢が突然黒花の前に立ちはだかった。
 夜帰る時は黒花はいつもなるべく大通りを利用する。十時近くなったので、早く帰りたい黒花は近道である脇道を選んだ。長沢の出現は偶然の出来事とは思わない。恨みを晴らすために待ち伏せしたに違いない。
黒花は長沢を無視して脇を通ろうとした。長沢は腕を伸ばして黒花を止めた。
「なにをニヤニヤしている、と聞いているんだ」
「あんたとは関係ないこと」
「なんで野球部に入らない」
「あんたとは関係ないこと」
「デートはやめろ、と言ったろ」
「あんたとは関係ないこと」
「痛い目に合いたいのか」
「暴力はやめたほうがいい」
「一回痛い目に合わなければ分からない人がいる」
「あんたのほうが痛い目に合わなければ分からないじゃないのか」
「ほう、やっぱり痛い目にあいたいんだな」
「もう一回言うけど、暴力はやめたほうがいい」
「やめたほうがいいけど、生意気なやつを叩かないと、腹の虫が治まらない」
「精神修業すれば解脱できる。腹の虫も収まってしまう」
「本当に生意気なやつだな」
「耳の痛い話しだけど、たまには人の言うことを聞いたほうがいい。そう思わないか」
「そうかい」長沢は黒花の顔を狙って右のストレートを出した。
転校常連の黒花は小学生のころ、よくいじめられた。泣いて帰ることもあった。お母さんは心配したが、心身ともに鍛え抜かれた自衛官であるお父さんは男はやられたらやり返せ、果敢に立ち向かって行けば相手は逃げる。いじめっ子に怯えるからいじめられる。まず恐怖心を克服すること、といつも言う。お父さんの言うことは正しいけど、自分よりでっかい人にいじめられるとやっぱり怖くてしょうがない。
 ある日、泣いて帰った黒花をお父さんが連れていじめっ子の家に行った。相手の親に事情を説明して、一対一の場面を作ってくれた。相手の親はいやだったけど、お父さんの強い後押しもあり、不承不承ながらも許した。自分の子供のほうが頭一つ高い、体は一回り大きい。負けるはずがない、痛い目に合うことはない、と見たからだ。
実際の対決場面になると、黒花は緊張する。体が硬くなり自分から進んで攻撃することができない。お父さんの前で逃げることもできない。相手を見ると、同じように緊張して体が硬くなっている。手が小刻みに震えている。
怯えた表情をしている相手を見て、黒花は初めて相手は決して強くないことが分かった。恐怖心を除いた黒花は相手が小さく見えた。一対一の対決は黒花が勝った。勝ったことにより、黒花に自信がついた。
その後も転校する度にいじめがあった。黒花は泣いて帰るようなことがなかった。ただし、でっかいいじめっ子を相手にすると、痛い目に合う時があった。
黒花の友達の中に、お父さんが有名人や要人のボディーガードの仕事をしていた人がいる。その人によると、要人警護の場合、襲う人にチャンスを与えないために場合によっては一発でその人を倒さなければならない。一撃必殺で相手を倒すためにはきたない喧嘩殺法を躊躇なく使う。
黒花をいじめたい人は黒花より小さい人はいない。黒花より大きい人が多い。元ボディーガードから話しを聞いた黒花は一撃必殺の戦法を用いるようになった。あれ以来、喧嘩に一度も負けたことがない。
長沢は柔道部の重量級選手。全国のトップクラスではないけど、東京ではちょっと名の知られた選手。接近戦には強い。打撃戦はそれほどではない。長沢のパンチは強いが、スピードがない。長沢は自分より大分小さい黒花を軽く見たようだ。パンチで簡単に倒せる、と思っている。普通の生徒なら長沢のパンチを恐れる。喧嘩慣れしている黒花は慌てない。腰を大きく後に反らしてパンチを交わした。その反動を利用した蹴りで長沢の金玉を直撃した。黒花はバランスを失って倒れたが、激痛を感じた長沢は頭を抱えて蹲っている。叫ぶことさえできない。
黒花は立ち上がって軽く身についたほこりを払った。この必殺技は距離とタイミングを掴むのが大事。何百回繰り返して練習して習得した黒花は失敗したことがない。長沢に喧嘩殺法を使うつもりがなかったけど、やらなければやられる。学校、特に玉石混淆の公立は弱肉強食の世界。そこで生き残っていくためにはやりたくないこともやらなければならない時がある。どうして転校生はいつもいじめの対象になるのか。転校常連の黒花はいまでも分からない。