十文字の表情から桂城は嵐の前の静けさを感じ取った。十文字は朝からずっと自分と目線が合わないようにしている。仕事の話しをしている時も、自分の顔を見ようとしない。桂城の心に暗雲が垂れ込めている。その陰影を追い払うことができない桂城は自分の無力さを痛感した。
皆がお昼に行った後、十文字が桂城を会議室に連れ込んだ。開口一番桂城を責めた。「どうしてあんなことをしました」
「分からない」桂城が頭を振った。
「子供じゃあるまいし。いい年をしてそういうことは分からないですか」十文字は怒りで顔が真っ赤になった。
「話しを聞いてください」桂城が哀願をした。
「そのために会議室に連れてきたでしょう。聞いて上げるわ」十文字の厳しい表情は変わっていない。
「 。 。 。 あの日は 。 。 。 」十文字に詰問されるのだろう、と桂城は何回も心の中で説明を理論的に組み立てる事前準備をした。いざ十文字の前になると、果たし自分の言葉だけで当時の状況を分かってもらえるのだろうか。説明すればするほど誤解をまねくかもしれない、との疑問が生じた。
「どうしました」十文字が冷ややかな笑いをした。
「酔っぱらっていた。何が起こったのか全然覚えていなかった」
「都合がいいわね」
「信じてください。私は全然そういうつもりはなかった」
「桂城さんは酔っぱらっても他の女性と寝ないでしょう。どうしてお母さんとだけ寝たのですか」
「 。 。 。 」
「信じられないわ」
「悪かった」
「謝ってすむと思います」
「そうは思わないけど。信用してください」
「桂城さんのことはもう信用できないわ」十文字の目に涙が浮かんだ。
「これ以上のことは説明できません。お願いだから信用しください」
十文字が頭を振って、会議室を出た。桂城はぼうっと十文字の後姿を見つめている。
桂城の突然辞職を聞いた部署の人たちは騒然となった。桂城がなにも言わずにいきなり姿を消した。いろんな噂が飛んでいる。桂城とよく昼飯を食べる十文字が質問攻めにあった。十文字にとっても寝耳に水。もう桂城とは縁を切ったから、自分とは関係ないことだが、ニュースを聞いた時は意外に思った。
「十文字さんも知らないですか」美加が感に堪えぬ様子で言った。桂城は美加が今まで一番評価した上司。突然やめられて、心残りがする。
「そんなこと知るわけがないでしょう」十文字がぶっきらぼうに言った。
「ひょっとしたらやめて結婚します」美加が閃いた疑問を尋ねた。
「結婚したらやめられなくなるでしょう」十文字が思わず失笑した。「家族を養わなければならい。結婚して辞職するのは普通は女性がすることですよ」
「そうですよね」美加が自分の頭を軽く叩いた。「もしかしたら十文字さんと関係があります」
「関係ないわよ」十文字が唇を尖らした。
「よくいっしょにランチを食べに行きませんでした」美加が様子を探るように十文字を見ていた。
「食事と辞職は関係ないでしょう」十文字は桂城の話しをしたくない。
「そうですか。例えばいっしょに食事に行かなくなって 。 。 。 ええ 。 。 。十文字さんに振られて、傷心の旅に出たとか」美加が推推測した。
「それは若い人のやることじゃありません。中年の男が女性のため仕事を簡単にやめますか。どうやって生活するのですか。再就職も大変じゃないですか」十文字が美加の推測を一蹴した。
「そう言えばそうですよね。でも桂城さんに帰ってきてほしいわ」別の部長にさんざん虐められたことがある美加は、次の部長がどんな人であるのかを心配している。
十文字の否定にもかかわらず、社内は桂城が十文字に振られて辞職したという噂がもっぱら。
十文字も桂城がやめた一月後に辞職をした。噂はたちまち広まった。桂城を追うために、十文字が会社をやめた、と。しかし、十文字が家にいる、と美加が確認した後、噂は雲散霧消した。
クアラルンプールは一年中真夏のような感じ。T-シャツかシャツ一枚で過ごせる。物価も安いし、生活がのんびりしていて過ごしやすい。あくせくする日本人と違って、マレーシア人は生活も仕事もマイペース。会社のためではなくて、自分のために生きている。クアラルンプールに来てから一年ほど経った後、桂城もだんだん地元の人たちのペースになってきた。
日本では、十文字に振られた自分が心の傷を癒やすために蒸発した、と憶測する人がいるに違いない。桂城は前から定年になったらマレーシアに移住する、と決めていた。十文字との破局により、桂城は日本での生活に嫌気をさして、移住を早めただけ。
クアラルンプールでは、チャイナ・タンのチャイナ・インにしばらく住んでいた。インの老オーナーは桂城が前旅行した時にお世話になったことがある。人生経験豊富なオーナーはいろいろとアドバイスをしてくれる。オーナーは八十才だが、なお矍鑠としている。これからもホテルを拡大する、と言うオーナーのエネルギーに桂城は脱帽した。
マレーシアの物価は日本で言えば六十年代のレベル。贅沢さえしなければ、貯蓄で生活できる桂城は仕事をするつもりはなく、ボランティア活動をしている。学校へ行けない子供が相当いて、子供たちが学校へ行けるように、日本企業から資金を集めている。
この日は、地元のボランティアたちと、地元のボランティア団体が運営する学校の再建の計画を立てている。
三十年前に建てた校舎はもうぼろぼろ。学生の数が増えて、校舎を拡大しなければならない。
いつものように、桂城は地元の日本企業担当になった。日本企業にはいつも寄付してもらっていて、校舎再建のためにどのぐらい力になれるのか、分からないが、地元の人たちは期待をしている。日本企業の本社の業績があまり芳しくないところもあり、協力できないところもある。桂城はいつもねばり強くお願いする。
「日本人助手でもいればな」会議が終わった後、桂城が声を出して嘆いた。
日本企業はクアラルンプール以外の地域にもある。日本語ができる人いれば、もっと広範囲に活動ができる。
私が助手になりましょうか、とふいに背後で女性の声がした。
聞いたことのある声にびっくりした桂城は弾かれるように振り向いた。十文字が会議室の入口に立っている。
桂城は唖然としてまじまじと十文字が見つめている。
「私が助手になりましょうか」十文字がもう一度聞いた。
「 。 。 。 なぜここに」桂城が信じられないように目を擦った。
「お母さんから話しを聞いたわ。あの日のことはお母さんが仕掛けましたの」
「お母さんがどうしてそんなことを言った」
「桂城さんがやめた後。私も辞職しました。人間不信になった私はずっと家に引きこもっていて、なにもしませんでした。心配したお母さんは、私を立ち直らすために、あの日のことを話ししてくれました」
引きこもりが長期化すると、社会復帰は難しい、と心配していた下田は一大決心して、娘にあの日の話しをした。娘を中年の昔の恋人にあげたくないが、娘がノイローゼになって、一生を台無しにするよりはまだいい、と思った。
「お母さんはどうしてそんなことをした」
「娘が昔の恋人に取られるのは抵抗を感じたのでしょう。お母さんの気持ちはよくわかりますわ」
「お父さんは」
「お父さんはもう諦めました。私さえよければ反対はしなくなりました」
「ここのことはどうして分かった」
「ちょっと調べれば分かることだわ」十文字が悪戯ぽっく舌を出して微笑んだ。
桂城は十文字に将来マレーシアに定住する計画を話ししたことがある。チャイナ・タン・インのオーナーのことも教えたことがある。十文字がインターネットでインの電話番号を調べて、オーナーに電話をした。
「そうですか」桂城は逃避行していないが、それでも簡単に見つけられたことに少々驚いている。
「助手として使っていただけますか」十文字が三回目の質問をした。
「私は日本に帰るつもりはないよ」桂城が十文字の目を見据えて言った。
「私も帰るつもりはありませんわ」十文字が躊躇わずに言った。
「そうですか。今夜は日本料理を作ってくれますか」桂城の顔は喜びで輝いた。
皆がお昼に行った後、十文字が桂城を会議室に連れ込んだ。開口一番桂城を責めた。「どうしてあんなことをしました」
「分からない」桂城が頭を振った。
「子供じゃあるまいし。いい年をしてそういうことは分からないですか」十文字は怒りで顔が真っ赤になった。
「話しを聞いてください」桂城が哀願をした。
「そのために会議室に連れてきたでしょう。聞いて上げるわ」十文字の厳しい表情は変わっていない。
「 。 。 。 あの日は 。 。 。 」十文字に詰問されるのだろう、と桂城は何回も心の中で説明を理論的に組み立てる事前準備をした。いざ十文字の前になると、果たし自分の言葉だけで当時の状況を分かってもらえるのだろうか。説明すればするほど誤解をまねくかもしれない、との疑問が生じた。
「どうしました」十文字が冷ややかな笑いをした。
「酔っぱらっていた。何が起こったのか全然覚えていなかった」
「都合がいいわね」
「信じてください。私は全然そういうつもりはなかった」
「桂城さんは酔っぱらっても他の女性と寝ないでしょう。どうしてお母さんとだけ寝たのですか」
「 。 。 。 」
「信じられないわ」
「悪かった」
「謝ってすむと思います」
「そうは思わないけど。信用してください」
「桂城さんのことはもう信用できないわ」十文字の目に涙が浮かんだ。
「これ以上のことは説明できません。お願いだから信用しください」
十文字が頭を振って、会議室を出た。桂城はぼうっと十文字の後姿を見つめている。
桂城の突然辞職を聞いた部署の人たちは騒然となった。桂城がなにも言わずにいきなり姿を消した。いろんな噂が飛んでいる。桂城とよく昼飯を食べる十文字が質問攻めにあった。十文字にとっても寝耳に水。もう桂城とは縁を切ったから、自分とは関係ないことだが、ニュースを聞いた時は意外に思った。
「十文字さんも知らないですか」美加が感に堪えぬ様子で言った。桂城は美加が今まで一番評価した上司。突然やめられて、心残りがする。
「そんなこと知るわけがないでしょう」十文字がぶっきらぼうに言った。
「ひょっとしたらやめて結婚します」美加が閃いた疑問を尋ねた。
「結婚したらやめられなくなるでしょう」十文字が思わず失笑した。「家族を養わなければならい。結婚して辞職するのは普通は女性がすることですよ」
「そうですよね」美加が自分の頭を軽く叩いた。「もしかしたら十文字さんと関係があります」
「関係ないわよ」十文字が唇を尖らした。
「よくいっしょにランチを食べに行きませんでした」美加が様子を探るように十文字を見ていた。
「食事と辞職は関係ないでしょう」十文字は桂城の話しをしたくない。
「そうですか。例えばいっしょに食事に行かなくなって 。 。 。 ええ 。 。 。十文字さんに振られて、傷心の旅に出たとか」美加が推推測した。
「それは若い人のやることじゃありません。中年の男が女性のため仕事を簡単にやめますか。どうやって生活するのですか。再就職も大変じゃないですか」十文字が美加の推測を一蹴した。
「そう言えばそうですよね。でも桂城さんに帰ってきてほしいわ」別の部長にさんざん虐められたことがある美加は、次の部長がどんな人であるのかを心配している。
十文字の否定にもかかわらず、社内は桂城が十文字に振られて辞職したという噂がもっぱら。
十文字も桂城がやめた一月後に辞職をした。噂はたちまち広まった。桂城を追うために、十文字が会社をやめた、と。しかし、十文字が家にいる、と美加が確認した後、噂は雲散霧消した。
クアラルンプールは一年中真夏のような感じ。T-シャツかシャツ一枚で過ごせる。物価も安いし、生活がのんびりしていて過ごしやすい。あくせくする日本人と違って、マレーシア人は生活も仕事もマイペース。会社のためではなくて、自分のために生きている。クアラルンプールに来てから一年ほど経った後、桂城もだんだん地元の人たちのペースになってきた。
日本では、十文字に振られた自分が心の傷を癒やすために蒸発した、と憶測する人がいるに違いない。桂城は前から定年になったらマレーシアに移住する、と決めていた。十文字との破局により、桂城は日本での生活に嫌気をさして、移住を早めただけ。
クアラルンプールでは、チャイナ・タンのチャイナ・インにしばらく住んでいた。インの老オーナーは桂城が前旅行した時にお世話になったことがある。人生経験豊富なオーナーはいろいろとアドバイスをしてくれる。オーナーは八十才だが、なお矍鑠としている。これからもホテルを拡大する、と言うオーナーのエネルギーに桂城は脱帽した。
マレーシアの物価は日本で言えば六十年代のレベル。贅沢さえしなければ、貯蓄で生活できる桂城は仕事をするつもりはなく、ボランティア活動をしている。学校へ行けない子供が相当いて、子供たちが学校へ行けるように、日本企業から資金を集めている。
この日は、地元のボランティアたちと、地元のボランティア団体が運営する学校の再建の計画を立てている。
三十年前に建てた校舎はもうぼろぼろ。学生の数が増えて、校舎を拡大しなければならない。
いつものように、桂城は地元の日本企業担当になった。日本企業にはいつも寄付してもらっていて、校舎再建のためにどのぐらい力になれるのか、分からないが、地元の人たちは期待をしている。日本企業の本社の業績があまり芳しくないところもあり、協力できないところもある。桂城はいつもねばり強くお願いする。
「日本人助手でもいればな」会議が終わった後、桂城が声を出して嘆いた。
日本企業はクアラルンプール以外の地域にもある。日本語ができる人いれば、もっと広範囲に活動ができる。
私が助手になりましょうか、とふいに背後で女性の声がした。
聞いたことのある声にびっくりした桂城は弾かれるように振り向いた。十文字が会議室の入口に立っている。
桂城は唖然としてまじまじと十文字が見つめている。
「私が助手になりましょうか」十文字がもう一度聞いた。
「 。 。 。 なぜここに」桂城が信じられないように目を擦った。
「お母さんから話しを聞いたわ。あの日のことはお母さんが仕掛けましたの」
「お母さんがどうしてそんなことを言った」
「桂城さんがやめた後。私も辞職しました。人間不信になった私はずっと家に引きこもっていて、なにもしませんでした。心配したお母さんは、私を立ち直らすために、あの日のことを話ししてくれました」
引きこもりが長期化すると、社会復帰は難しい、と心配していた下田は一大決心して、娘にあの日の話しをした。娘を中年の昔の恋人にあげたくないが、娘がノイローゼになって、一生を台無しにするよりはまだいい、と思った。
「お母さんはどうしてそんなことをした」
「娘が昔の恋人に取られるのは抵抗を感じたのでしょう。お母さんの気持ちはよくわかりますわ」
「お父さんは」
「お父さんはもう諦めました。私さえよければ反対はしなくなりました」
「ここのことはどうして分かった」
「ちょっと調べれば分かることだわ」十文字が悪戯ぽっく舌を出して微笑んだ。
桂城は十文字に将来マレーシアに定住する計画を話ししたことがある。チャイナ・タン・インのオーナーのことも教えたことがある。十文字がインターネットでインの電話番号を調べて、オーナーに電話をした。
「そうですか」桂城は逃避行していないが、それでも簡単に見つけられたことに少々驚いている。
「助手として使っていただけますか」十文字が三回目の質問をした。
「私は日本に帰るつもりはないよ」桂城が十文字の目を見据えて言った。
「私も帰るつもりはありませんわ」十文字が躊躇わずに言った。
「そうですか。今夜は日本料理を作ってくれますか」桂城の顔は喜びで輝いた。
