六つの夢

 十文字と話しをしてから桂城は気持ちが大分楽になったが、下田のことを考えると、胸の中のもやもやを完全に吹き飛ばすことはできない。いつかは十文字と正式に挨拶にいかなければならない、と考えただけで後込みする。
 気持ちは整理できても、体はついて行けない。老化現象と同じ。しかし、いつまでも中途半端な状態にしておくわけには行かない。そろそろ勇気を出さないと、十文字に怒られそう、と桂城が下唇を噛んだ。
 この日は十文字がお父さんとコンサートに行く、と言って、仕事を終えた後にすぐに会社を出た。桂城は帰宅してから食事することにした。駅に着いた桂城が内ポケットから定期を出して、改札口を通過しょうとした時に、桂城さん、と後から声が飛んできた。
 振り返ると、下田が立っている。
 「ちょっと時間ありますか」下田が媚びた笑いを頬につけた。
 桂城はつかの間思案をしてから頷いた。下田の気持ちを聞きたい。第三者がいなければ、お互いに忌憚なく話すことができる。
 下田の要請で二人は駅近くの居酒屋に入った。飲物とおつまみを頼んだ後、二人お互いを確かめるように見つめ合っている。この前は十文字がいて、お互いに相手の顔をまともに見ることができなかった。
 桂城はいまでも気が若くて、いつも楽しそうに見える。少しふけた以外は昔のまま。イメージが全然変っていない。私の選択は間違っていたかしら、と下田が心の中で呟いた。
 下田は中年になったが、端正の輪郭ははっきり残っている。美人は年を取っても美人だ、と桂城は認めざるを得ない。
 「お互いに年を取ったわね」下田が照れ笑いをした。
 「二十年以上も経ったからね」桂城は自分が年を取った感じはしないが、若い人を見ると実感が湧いてくる。女子高校生におじさん、と呼ばれた時はショックを受けた。
 「亜佐美ちゃんと付き合っている、とは夢にも見なかったわ」下田が感慨深げに言った。
 「下田さんのお嬢さんとは知らなかった」桂城が苦笑した。
 「本当ですか。よく似ていると言われますけど」下田が信じがたいような表情をした。
 「並んでいると親子よりも姉妹見たいですね。なんで気づかなかっただろう」桂城が首をひねた。
 「気づいたらお付き合いはやめました」下田が語尾を跳ね上げた。
 想像したことのないことを聞かれて、桂城は返答に窮した。もし、十文字が自分の昔の恋人の娘であることを知っていたら、自分は身を引いていたのだろうか、と桂城は頭を傾げて思考を巡らしている。
 「ビールです」ウェイトレスが注文された飲物を運んできた。
 物思いから現実に引き戻された桂城は頭を振った。「分かりません」
 「乾杯しましょう」下田がジョッキを上げた。
 「乾杯」桂城もジョッキを上げた。
 「飲めるようになりましたね」下田が冷やかすように言った。
 「仕事上の付き合いがあるからだ」桂城は生まれつきの下戸。学生だったころは飲まなかった。就職してからは鍛えられて、少し飲めるようになった。ただし、強くない。すぐ顔が真っ赤になる。
 「成長しましたね」下田が笑った。社会人になっても昔の純真さを持っているのが桂城の魅力。
 「まあね」学生時代は利害関係がないから、飲めなくても影響はない。仕事上の人間関係はもっと複雑。飲酒に付き合わないと話しが進まない時がある。酒を少量飲むか、飲むフリをすれば、相手はなにも言わない。
 おつまみが来た後も、下田は雑談ばっかりして、問題の核心に触れようとしない。
 「ところで今日はなんのために」桂城が下田の顔を見た。
 「別に特別な意味がありません。ただ旧交を暖めたかっただけです。亜佐美ちゃんのことで私の存在が気になると思いますが、私は反対しませんわ。これは運命ですもの。しょうがありません」下田が物分かりのよいことを言った。
 「本当?」桂木は一瞬自分の耳を疑った。
 「嘘をついてもしょうがないでしょう」下田が思わず笑った。
 「本当に本当ですか」
 「本当に本当です。未知の人に娘をあげるより、健一さんのほうが安心できます。それに健一さんは娘が選らんだ人。こういうことは親が反対すればすれほど意地になります。親の出る幕はありません」
 「ありがとう」桂城が胸を撫で下ろした。これで一つの壁を乗り越えて、後は十文字のお父さんを説得する。お母さんが見方になってくれれば、心強い。
 「お手洗いに行ってきますわ」下田が席を離れた。
 しばらく料理を摘んだ後、桂城もお手洗いに行くことにした。ビールを飲んで、他人がトイレットへ行き始めると、連鎖反応のように尿意を催される。
 桂城がトイレットから戻った時は下田はウェイトレスにビールを注文している。
 「もう一杯飲みますか」下田が桂城に視線を向けた。
 「もう一杯ください」十文字との関係を認めてもらって、桂城は有頂天になり、ジョッキに残っているビールを飲み干した。普段はビール一杯が限界。この日はもう少し飲めそう。本当に久しぶりにビールでいい気持ちになった。
 「昔に戻れたらいいな」下田が夢心地の目で宙を見つめている。
 桂城は下田の言うことを無視した。十文字との関係があるから、下田とは昔話しをしたくない。先が見えてきた下田は過去を回顧したくなる。十文字との将来を考える桂城は過去を顧みたくない。
 「ねェ、ねェ、あの人覚えています」下田が突然話題を変えた。
 「誰?あの人じゃ分からない」桂城がこめかみを摩った。頭が少し重くなってきたようだ。最近疲れているから、ビール一杯で酔いが回っている。アルコールに弱いが、ビール一杯で酔っ払うほど弱くはない。
 「千絵ちゃん」
 「覚えている」
 千絵ちゃんは桂城に好意を寄せていた同級生。下田と付き合っていた桂城は知らない振りをしていた。
 「離婚したの」
 「本当!」
 「子供二人いるのよ。凄い勇気があると思いません」
 「自分で生活できる?」中年になった桂城は生活の厳しさをよく知っている。子持ちの中年女性の離婚はよほどの覚悟がないとできない。
 「大変みたい」下田が同情の意を表した。
 「大変だろうな」桂城の目つきがだんだんとろんとなってきた。
 「今度千絵ちゃんを誘って食事しましょうか」
 「いつ?」
 「千絵ちゃんの都合を聞いてから連絡するわ」
 「 。 。 。 そうして」
 「大丈夫ですか。酔っ払いました?コーヒーでも飲みに行きましょうか」
 「行こう」コーヒーなら目を覚ますことができる。桂城は早く頭の重さを取り払いたい。
 居酒屋を出た後、タクシーに乗って下田が連れていてくれたのはバーのようなところ。下田がなにを注文したのか知らないが、コーヒーのような熱い飲物は飲めば飲むほど瞼が重くなり、桂城はだんだん目を開けられなくなった。これでは泥酔してしまう、と警戒して水を頼んだ。水は冷たくて美味しい。桂城はもう一杯頼んだ。連続三杯飲んだ桂城は椅子にもたれて寝てしまった。
 
 桂城の目が覚めた時は二日酔いでまだ頭がふらふらしているが、同じベッドの隣に裸の下田がいて、びっくりして弾かれたように起きあがった。部屋の装飾から判断すると、ラブホテルに違いない。
 下田をラブホテルに連れていった覚えはない。なんでベッドを共にしたことになったのだろう、と桂城が狼狽えている。
 ベッドのきしみで下田が寝ぼけた目を開けた。隣にいる桂城を見て、驚いて気絶しそうになり、ぽかんと目の前の桂城を見つめている。
 「どうしてこういうふうになった?」桂城が動転して下田を見返した。
 「分からないわ」下田はショックで顔が青白くなった。
 「私は酔っぱらっていた。なにも覚えていない」
 「私も覚えていない」
 「まいったな。どうしょう」
 「私のほうが聞きたいわ」
 「ああ 。 。 。 」桂城が頭を抱える。
 「私は主人と亜佐美ちゃんに顔向けできないわ」下田がすすり泣いている。
 「申し訳ない」対応策がない桂城は謝るしかない。
 「もう、いやッ」下田が座り直して拳で桂城の胸を叩いた。
 良心の呵責に苛まれている桂城は抵抗しない。
 「困りましたわ」桂城をぶった下田がシーツで涙を拭く。
 「本当に申し訳ない。どうしょう」桂城の全身に狼狽の色が現れた。
 「自分に聞きなさい」怒りをぶつけるような厳しい声で言った下田が起きて服を着た。
 返す言葉がない桂城は黙るしかない。もうなにを言っても許してもらえないだろう。この取り返しのつかない過ちは十文字との関係を台無しにするような気がして、黒い影が心に波紋を投じた。
 「はな 。 。 。話しを聞いてください」
 「言い訳なら聞きたくないわ」
 「言い訳ではない 。 。 。これは 。 。 。 」葛城はどう説明すればいいのか分からず、困っている。
 しびれを切らして下田がドアに向かった。部屋を出る前の下田が振り返って、捨て台詞を残した。「桂城はこんな人とは思わなかったわ」
 桂城がシャワーを浴びてから、服を着た。時計を見ると午前六時。下田といっしょに飲んでからまだそれほど時間が経っていない。その短い間に二人の人間の運命を変えることが起きた。これも運命だろうか、と桂城が溜息をついた。運命は予測できない。