六つの夢

 授業が終了した桂城は大学の喫茶店に急いで行った。下田玲子がもうそこで待っている。桂城が飲物を買って下田の隣に座った。
 「授業はどうだった」下田が桂城の端正の顔を見据えている。顔立ちのいい桂城は女子大生に人気がある。桂木が自分の彼氏であることに誇りを持っている。
 「面白くない。なんで大学でこんなことを勉強するのか分からない」桂城が愚痴ぽっく言った。
 「授業は先生によりますからね」運悪く面白くない授業を選んだことがある下田は桂城の気持ちがよく分かる。
 「ところで土曜の夜の映画だけど、バイト仲間が急用で田舎に帰る。代わりに行かなければならない。次の土曜にしてもいい」桂城が申し訳なさそうに言った。
 家が裕福でない桂城はアルバイトをして生活費を稼いでいる。お店が忙しい時は急に呼ばれて出勤する時がある。下田とのデートは突然キャンセルしなければならない時がある。
 「うん。気にしないで。来週でもいいわ」桂城の生活事情をよく知っている下田は理解を見せた。
 「ありがとう。来週はかならず行く」桂城は本当は下田とデートをしたいが、お世話になっているお店の要請を簡単には断れない。
 「桂城さんは大変ね。週末も休めずにバイトして」下田が同情を寄せた。同じ大学生でも勉強しないで遊びばっかりしている人もいれば、桂城のようにバイトをしながら頑張っている人もいる。世の中は不公平。これは現実。
 「しょうがないよ。将来のために頑張る」桂城が下田を見て微笑んだ。
 バイトしながら勉強をするのは大変だが、下田が心の支えになっている。二人は正式には婚約をしていない。結婚という暗黙の了解で付き合っている。桂木は下田の家に遊びに行ったことがある。二人は親公認の仲。後一年で卒業する二人はもう将来の設計はしてある。
 「頑張ってね」下田が桂城の手を握った。
 「頑張る」桂城が手を握り返した。「もうそろそろ行かないと」五時までにお店に行かなければならない桂城は立ち上がった。

 家を出た下田が急いで駅に向かっている。八時十分の電車に乗らなければ九時の授業に間に合わない。朝起きが苦手な下田は九時の授業を取りたくないが、必修科目は時間を選べられない。
 急いで歩いている下田の側に急停車した車の窓が下ろされた。「玲子ちゃん、大学へ行くんですか」ヒデキが窓から乗り出して聞いた。
 ヒデキは下田の家の少し離れたところに住んでいる。ヒデキのお父さんは医者。ヒデキも医大に行っている。町内での存在感は大きい。
 「お早う」下田が挨拶した。ヒデキとは町内の幼なじみだが、中学生になってからは滅多に会わない。
 「送りましょうか」ヒデキが涼しい目元を下田に向けて微笑んだ。
 下田は躊躇している。乗れば込み合う電車は避けられる。自分のために回り道をさせたくない。
 「同じ方向へ行きます」ヒデキが下田の迷いの理由を察知したように言った。
 「じゃあ、お願いします」下田が車に乗った。
 「久しぶりですね」ヒデキが乗った下田の横顔をちらっと見た。
 「はい。お元気ですか」
 「お陰さまで何とかやっています。来年卒業します。早く卒業して働きたい。ところで下田さんはいつ卒業するのですか」
 「私も来年です」
 「そうですか。就職は」
 「これから就職活動をします」
 「どういう仕事をしたいですか」
 「マスコミです。新聞社か雑誌社に入りたい」
 「やり甲斐のある仕事ですね。私も本当はマスコミ希望だったけど、親父がうるさくて諦めた」
 「そうですか。ヒデさんは優秀ですね。行きたい所へ入学できまして。マスコミは競争が激しくて採用されるのかどうか分からないわ」
 「人気分野の一つだからね。入るのは大変。親父にコネがあるのかどうか聞いて見ましょうか」
 「へェー、そういうことはできるのですか」
 「入社試験がありますよね。成績が悪い人はどうすることもできないが、他の人と同じぐらいの成績なら親父の力でなんとかなるかもしれません。玲子ちゃんなら入社試験は問題ないじゃありません?」ヒデキのお父さんは医学界の大物。実力と政治力を持っている。各界の実力者を知っている。
 「お願いしていいですか」下田が遠慮がちそうに言った。こういうことは本当はお願いしたくない。実力競争は厳しい。実力があっても採用されるとは限らない。自分の力だけで入社する自信がない。
 「聞いてみますよ。親父は世話好きだから、玲子ちゃんのことならやってくれるじゃないかな」ヒデキが自信ありげに言った。
 「ありがとう」
 「いいえ。玲子ちゃんのために尽力できて嬉しい。はい、着きました」ヒデキが大学の近くに車を止めた。
 「ありがとう。助かったわ」下田が感謝の意を表した。
 「ところで土曜の夜予定あります?合コンがあるけど来ません」ヒデキが車を出ようとする下田に言った。
 「土曜ですか 。 。 。 」下田が迷っている。桂城という彼氏がいる自分はもう合コンへ行く理由がなくなった。土曜日は桂城が急にデートをキャンセルしたため、やることがない。
 「いろんな人が来て楽しいよ。難しいことを考えないで来てください」ヒデキが弾けるような微笑みを下田に向けた。
 「 。 。 。 行きます」どうせやることがないなら、楽しんできたほうがいい、と下田が割り切った。
 「七時に迎えに行きます。じゃあね。バイバイ」ヒデキが車を飛ばした。

 合コンへ行った後、ヒデキは週三回下田を大学に送るようになった。ヒデキは下田より三つ上。二人は子供のころよく町内会の集会やお祭りでいっしょに遊んだ仲間。下田にとってはお兄さんのような存在。男として意識したことがない。
 桂城が忙しくてデートできない時は、下田はヒデキと外出ようになった。ヒデキの友達は医者の卵か大手実業家の子供が多い。話題も下田が住んでいる世界の枠を越えていておもしろい。ヒデキは下田を自分の彼女ではなく、お隣りのお嬢さんと紹介してくれる。ヒデキとの付き合いも楽。変な意識をすることはない。
 夏の初めに下田は大手新聞社三社と女性週刊誌一社の試験を受けた。試験はたくさんの応募者を落とすための奇問難問が結構多い。マスコミのことしか頭になかった下田は受からなかった時のことを考えたことがなかった。試験が終わった後、手応えを感じなかった下田は落ち込んでいる。
 ヒデキは元気のない下田をあちこちへ遊びに連れていく。一回目がだめなら再チャレンジすればいい、と下田を励ます。実際、就職できないマスコミ浪人が相当いる。
 下田は第二希望の雑誌社に願書を出すべきか、と悩んでいる時、第一希望の新聞社から面接の通知が来た。有頂天になった下田は通知をヒデキに見せた。
 「凄い。下田さんはやっぱり実力がある」ヒデキが下田を誉めた。
 「嬉しい。これから面接の準備をしなきゃ」下田は小躍りして喜んだ。
 「面接のことは親父に言うよ。採用は間違いないでしょう」ヒデキが後押しをした。

 新聞社から内定をもらった下田は飛び上がるほど喜んだ。就職が決まって、後顧の憂いがなくなった下田は、学生の最後の夏を思い切って遊ぶことにした。商社希望の桂城はまだ会社が決まらず、就職活動を夏休み中に継続している。
 下田は既に就職の病院が決まったヒデキとコンサートに行ったり、レストラン巡りしたりする。遊んでいるうちに、ヒデキに言い寄られるようになった下田は、最初は無視したけど、少しずつ気持ちが揺れるようになった。
 桂城は就職しても初任給は安いし、家族を養えない。自分は一生働かなければならないかもしれない。下田は何年間か好きな仕事をした後、専業主婦になりたい。ヒデキと結婚するなら、贅沢できなくても生活の心配はない。
 ヒデキのほうがやや年上だが、身長も顔も桂城に遜色しない。しかも経済力がある。デートする時は懐と相談しながら映画を見たり、食事をしたりする必要がない。桂城はこれから一人前になる人間。エリート・コースを歩んできたヒデキはもうすでに一人前のような顔をしている。ヒデキの自信満々の態度は、まだ学生である下田にとっては頼もしく見える。
 下田が頭の中で二人を天秤にかけて、あれこれ悩んでいるうちに、就職活動やアルバイトで週一回か二回しか下田に会わない桂城の存在がだんだん薄れていく。ヒデキに誘われて、悩んだあげくいっしょに北海道へ四泊五日の旅行をしたことは、桂城との関係に終止符が打たれた意味がした。
 桂城が下田の異変に気づいた時は既に遅かった。下田の気持ちは桂城から遠ざかっていた。下田を取り戻そう、と桂城も一時努力したが、一旦変わってしまった下田は桂城に戻らなかった。桂城はとうとう諦めた。
 就職した下田は一年後に、マスコミの仕事に幻滅して退職した。十文字ヒデキと結婚して、専業主婦になった。