渋谷駅の南口を出た桂城は歩道橋を渡って、坂を登った。南口はセンター街と違って、人が増えた以外はあまり変わらない。大人の町。坂を登り切ったところで桂城は左折して、路地に入った。三十メートル離れたところに小さなスナックがある。アミのまわりにはお店がない。砂漠の真ん中にぽつんと立っているようもの。桂城が常連だったころは結構繁盛していた。今は競争がはげしくなり、常連客だけで持っている。話しをよく聞いてくれるママさんは人気がある。
四十を過ぎてから桂城はだんだん出不精になった。どこかへ行くよりも、家でくつろいだほうが休みになる。ある程度年を取ると、付き合いが少なくなるのは自然現象。同年代の人たちはほとんど家庭を持っている。新しい友達を作るのは難しい。一人で過ごす時間がだんだん増えていく。
ドアを開けて入ってきた桂城にママさんが大きい目をパチクリした。「あらーあ。久しぶり」
「ああ、どうも。元気ですか」桂城はカウンターに座った。開店したばっかりのお店はお客さんがいない。
「お陰さまでなんとかやっていますわ」ママさんは桂城にお絞りを出した。
「例の飲物をください」桂城がお絞りで手を拭きながら言った。
ママさんはチョッキにトマトジュースを入れてからビールを注いで出した。桂城の特注品。桂城が学生時代に外人パップでアルバイトをしていた時に覚えた飲物。最初はあまり馴染めなかった。飲んでいるうちに自分の定番になった。しばらく来なくてもママさんが桂城の特注品を覚えているのはさすがにプロ。
「元気そうですね」ママさんが桂城の顔を観察した。
「元気にやっていますよ」桂城が微笑んだ。
「 。 。 。 顔がちょっと曇っています。悩みがあるんですか」波瀾万丈の人生を過ごしてきたママさんはさすがに勘が鋭い。ママさんはサラリーマンお客さんのよき相談者。悩みを抱えている人や愚痴をこぼしたい人がよく来る。お店を開く前のママさんはOLだった。会社の人間関係の難しさに苦労したことがある。
「別に。ただ精神的に少し疲れている」桂城はママさんの前では素直になれる。
「よく分かるわ。サラリーマンは大変だからね」サラリーマン・カウンセラーのようなママさんは働く者の事情をよく知っている。
「だからママさんのところへ来たんだ」桂城が曖昧な微笑みを浮かべた。
「ありがとう。ノンちゃん覚えています」
「覚えている」
「去年結婚したの」
「よかったね」
ノンちゃんはママさんが雇っていたアルバイト。桂城には気があったが、桂城は知らないふりをしていた。
「桂城さんは彼女がいないですか」
桂城が頭を振ったが、十文字のことが頭を過ぎった。人生とは皮肉なもの。若い時はなかなか好きな女性に会えない。イメージ通りの女性が現れた時はもう自分は中年男になってしまった。十文字は会った瞬間に運命の人だ、と気づいた。年の差を考えると誘う気にはならない。それに自分は上司。上司という立場を利用したくない。
「紹介しましょうか。私、頼まれたの。いい子わよ。保証するわ」世話好きなママさんが一肌を脱ごうとした。
「ありがとう。でも結構です」紹介されたことがある桂城はもう斡旋された人と付き合いたくない。会った後に断るのは大変。相手も同じことを考えるはず。
「桂城さんは孤高だから彼女ができないのよ」ママさんがお母さんのような目で桂城を見つめている。
「そうですか」自分のことを孤高と思ったことがない桂城が頭を傾げた。
「それと、好きな人に会ったら、あまり考えすぎないほうがいいです」
「どういう意味ですか」
「相手の国籍とか年齢は考えないで、積極的にアタックすることです」
「確かに考えすぎる傾向があります」
「もうちょっとリラックスしたほうがいいじゃありません」ママさんが傍観者の観点からアドバイスをした。ママさんは豊富な人生経験と鋭い洞察力の持ち主。
「はい」桂城が相槌を打ったが、具体的にはどうすればいいのか分からない。
「仕事は真面目に、後はリラックスして、人生を楽しむ」ママさんが自分の経験に基づいて渡世の智恵を貸した。
そう言われれば、自分は堅すぎる面があるかもしれない、と桂城が思う。肩の力を少し抜いて生きたほうが楽だ、と知っていながらできないのはやっぱり人間。ママさんの話しは参考になる。
一時間ぐらい飲んだ後、桂城は渋谷で晩飯を食べてから帰路についた。気晴らしにママさんに会いに来た。気分転換になり、よかった。
久しぶりに大学の先輩や友達と飲む十文字は爽快な気持ちになった。会社の堅い雰囲気と重圧から解放されて、十文字は明るさを取り戻した。気の置けない友達はやっぱりいい。いっしょにいるだけで楽しい。
飲み会に出た十数人は大きいテーブルを囲んでいる。その中には、十文字のようにこの年に就職したばっかりの人もいる。彼らも十文字のように、現実と理想のギャップに悩まされている。中にはまだ学生気分が抜けていなくて、転職を考えている人もいる。飲み会はガス抜きには持ってこい集まり。
「ねえ、聞いて」昌美が隣に座っている十文字に憤然とした顔で言った。「会社の中に凄く性格が悪い年寄りがいます。部長の先輩だから一々うるさいの。嘱託の癖に人事にまで口を出します。使用期間中の人でも気に入らなければ、やめさせます。酷いでしょう」
昌美は大手出版社に就職した。その出版社は定年後の社員を嘱託として採用する。採用された人の中には自分の存在感を見せるために先輩としての地位を悪用する。
「うちの銀行はもっと悪い」向かい側にいる洋子が言葉を挟んだ。「部長が部下が取った仕事を自分が取った、と上に報告した。部下は登社拒否になった時期もあったわ」
「俺にも言わして」商社で働いている鉄也が手を挙げた。「俺は毎晩飲兵衛先輩に付き合わされている。行かなければあれこれ口実を設けて、俺を虐める。もう俺はやめたいよ」
「それはまだいいほうじゃない」保険会社の博司が声を上げた。「俺は女性上司に逆セクハラされた」
「本当?」皆が異口同音に叫んで、笑った。
「俺は嘘つかないよ」博司が真顔になった。「会社で遅くまで仕事をしていたら、無理矢理に迫ってきた」
「どんなことをされた?」鉄也が必死に爆笑を堪えている。
「そんなことはどうでもいいだろう」博司が気色ばんだ。
「いいんじゃないか。皆知りたい」
「うるさい」
「上に報告したら」登が言った。
「報告できるわけがないだろう。あんたたちも信じないことは他の人は信じないよ」
「これからどうするんだ」
「どうすることもできないよ。やめなければセクハラを我慢するしかない」
「やめますか」
「そう簡単にはやめられないよ。就職したばっかりだし。早い転職はよく思われない。二、三年は我慢するつもり」
「二、三年もセクハラを我慢する。博司は偉い」
「偉くないよ。生活のためなんだよ」
「大分大人になりあましたね」
「当たり前だろう。社会人になったから」
「逆セクハラか。いいな」鉄也がうらやましそうな顔をした
「バカ。お前も逆セクハラされてみたら分かる」
「されてみたい」
「バカ」
「逆セクハラされるうちが花」
「アホ、変態」
「十文字さんの会社はどうですか」広告代理店の亜矢子が自分の左側に座っている十文字に視線を向けた。
「うちのはいい会社です。皆いい人です」皆の話しを聞いて、十文字はまともな会社に入社できてよかった、と思った。
「それはよかったじゃない。私はサービス残業ばっかりさせられて、疲れています。仕事だからしょうがないけど」亜矢子が嘆いた。
「残業の請求はできないですか」業績がいい会社で働いて、実際にサービス残業をさせられたことがない十文字はそういう状況を理解できない。
「請求する人いないわ。サービス残業をするのが当たり前の雰囲気。週八十時間ぐらいは普通。忙しい時は百時間ぐらいする。仕事と通勤以外はなにもできません」亜矢子は疲労困憊な顔をしている。
「大変ですね」十文字が同情した。
「でも、私、来年早々やめます」亜矢子が微笑んだ。
「ひょっとしたら結婚ですか」十文字目を丸くした。
「はい。結婚します。会社の同僚です。忍君、ああ、彼の名前です。忍君と結婚したら専業主婦になります。もう働きたくありません」亜矢子の顔が桜色に上気した。一刻でも早く結婚したい様子。
「素敵。皆に報告しましょうか」十文字が飲んでいる人たちを見回した。
「まだ早いわ。そのうちに報告します」亜矢子が十文字を止めた。「十文字さんは?彼氏はできました」
「いいえ」十文字の頭の中に桂城が浮かんだ。
十文字の理想は大体二十五才ごろに、自分より最大五才ぐらい上の男性と結婚する。どういうわけか桂城のことが頭から離れない。想定外の自分の気持ちを十文字が十分理解できない。葛城は自分のお父さんと同じぐらいの年だが、いっしょにいる時は全然年の差を感じない。自分でも不思議。
「十文字さんは持ってるからこれからじゃないですか」
「そんなことないわよ。亜矢子さんに紹介してほしいわ」
「鉄也はまだ十文字さんのこと忘れていないみたい」
「もう済んだことだわ」
鉄也は学生時代に十文字に熱を上げた時期があったが、不発に終わった。
飲み会の次はカラオケ。何曲も歌って、踊った十文字はすっきりした。次の日は日曜。皆は終電の時間まで頑張った。十文字は何人かの女性の友達と近いうちに再会を約束してから帰った。最終電車は込んでいて、酔っぱらいも多い。楽しい一時を過ごした十文字はそれほど気にしなかった。
四十を過ぎてから桂城はだんだん出不精になった。どこかへ行くよりも、家でくつろいだほうが休みになる。ある程度年を取ると、付き合いが少なくなるのは自然現象。同年代の人たちはほとんど家庭を持っている。新しい友達を作るのは難しい。一人で過ごす時間がだんだん増えていく。
ドアを開けて入ってきた桂城にママさんが大きい目をパチクリした。「あらーあ。久しぶり」
「ああ、どうも。元気ですか」桂城はカウンターに座った。開店したばっかりのお店はお客さんがいない。
「お陰さまでなんとかやっていますわ」ママさんは桂城にお絞りを出した。
「例の飲物をください」桂城がお絞りで手を拭きながら言った。
ママさんはチョッキにトマトジュースを入れてからビールを注いで出した。桂城の特注品。桂城が学生時代に外人パップでアルバイトをしていた時に覚えた飲物。最初はあまり馴染めなかった。飲んでいるうちに自分の定番になった。しばらく来なくてもママさんが桂城の特注品を覚えているのはさすがにプロ。
「元気そうですね」ママさんが桂城の顔を観察した。
「元気にやっていますよ」桂城が微笑んだ。
「 。 。 。 顔がちょっと曇っています。悩みがあるんですか」波瀾万丈の人生を過ごしてきたママさんはさすがに勘が鋭い。ママさんはサラリーマンお客さんのよき相談者。悩みを抱えている人や愚痴をこぼしたい人がよく来る。お店を開く前のママさんはOLだった。会社の人間関係の難しさに苦労したことがある。
「別に。ただ精神的に少し疲れている」桂城はママさんの前では素直になれる。
「よく分かるわ。サラリーマンは大変だからね」サラリーマン・カウンセラーのようなママさんは働く者の事情をよく知っている。
「だからママさんのところへ来たんだ」桂城が曖昧な微笑みを浮かべた。
「ありがとう。ノンちゃん覚えています」
「覚えている」
「去年結婚したの」
「よかったね」
ノンちゃんはママさんが雇っていたアルバイト。桂城には気があったが、桂城は知らないふりをしていた。
「桂城さんは彼女がいないですか」
桂城が頭を振ったが、十文字のことが頭を過ぎった。人生とは皮肉なもの。若い時はなかなか好きな女性に会えない。イメージ通りの女性が現れた時はもう自分は中年男になってしまった。十文字は会った瞬間に運命の人だ、と気づいた。年の差を考えると誘う気にはならない。それに自分は上司。上司という立場を利用したくない。
「紹介しましょうか。私、頼まれたの。いい子わよ。保証するわ」世話好きなママさんが一肌を脱ごうとした。
「ありがとう。でも結構です」紹介されたことがある桂城はもう斡旋された人と付き合いたくない。会った後に断るのは大変。相手も同じことを考えるはず。
「桂城さんは孤高だから彼女ができないのよ」ママさんがお母さんのような目で桂城を見つめている。
「そうですか」自分のことを孤高と思ったことがない桂城が頭を傾げた。
「それと、好きな人に会ったら、あまり考えすぎないほうがいいです」
「どういう意味ですか」
「相手の国籍とか年齢は考えないで、積極的にアタックすることです」
「確かに考えすぎる傾向があります」
「もうちょっとリラックスしたほうがいいじゃありません」ママさんが傍観者の観点からアドバイスをした。ママさんは豊富な人生経験と鋭い洞察力の持ち主。
「はい」桂城が相槌を打ったが、具体的にはどうすればいいのか分からない。
「仕事は真面目に、後はリラックスして、人生を楽しむ」ママさんが自分の経験に基づいて渡世の智恵を貸した。
そう言われれば、自分は堅すぎる面があるかもしれない、と桂城が思う。肩の力を少し抜いて生きたほうが楽だ、と知っていながらできないのはやっぱり人間。ママさんの話しは参考になる。
一時間ぐらい飲んだ後、桂城は渋谷で晩飯を食べてから帰路についた。気晴らしにママさんに会いに来た。気分転換になり、よかった。
久しぶりに大学の先輩や友達と飲む十文字は爽快な気持ちになった。会社の堅い雰囲気と重圧から解放されて、十文字は明るさを取り戻した。気の置けない友達はやっぱりいい。いっしょにいるだけで楽しい。
飲み会に出た十数人は大きいテーブルを囲んでいる。その中には、十文字のようにこの年に就職したばっかりの人もいる。彼らも十文字のように、現実と理想のギャップに悩まされている。中にはまだ学生気分が抜けていなくて、転職を考えている人もいる。飲み会はガス抜きには持ってこい集まり。
「ねえ、聞いて」昌美が隣に座っている十文字に憤然とした顔で言った。「会社の中に凄く性格が悪い年寄りがいます。部長の先輩だから一々うるさいの。嘱託の癖に人事にまで口を出します。使用期間中の人でも気に入らなければ、やめさせます。酷いでしょう」
昌美は大手出版社に就職した。その出版社は定年後の社員を嘱託として採用する。採用された人の中には自分の存在感を見せるために先輩としての地位を悪用する。
「うちの銀行はもっと悪い」向かい側にいる洋子が言葉を挟んだ。「部長が部下が取った仕事を自分が取った、と上に報告した。部下は登社拒否になった時期もあったわ」
「俺にも言わして」商社で働いている鉄也が手を挙げた。「俺は毎晩飲兵衛先輩に付き合わされている。行かなければあれこれ口実を設けて、俺を虐める。もう俺はやめたいよ」
「それはまだいいほうじゃない」保険会社の博司が声を上げた。「俺は女性上司に逆セクハラされた」
「本当?」皆が異口同音に叫んで、笑った。
「俺は嘘つかないよ」博司が真顔になった。「会社で遅くまで仕事をしていたら、無理矢理に迫ってきた」
「どんなことをされた?」鉄也が必死に爆笑を堪えている。
「そんなことはどうでもいいだろう」博司が気色ばんだ。
「いいんじゃないか。皆知りたい」
「うるさい」
「上に報告したら」登が言った。
「報告できるわけがないだろう。あんたたちも信じないことは他の人は信じないよ」
「これからどうするんだ」
「どうすることもできないよ。やめなければセクハラを我慢するしかない」
「やめますか」
「そう簡単にはやめられないよ。就職したばっかりだし。早い転職はよく思われない。二、三年は我慢するつもり」
「二、三年もセクハラを我慢する。博司は偉い」
「偉くないよ。生活のためなんだよ」
「大分大人になりあましたね」
「当たり前だろう。社会人になったから」
「逆セクハラか。いいな」鉄也がうらやましそうな顔をした
「バカ。お前も逆セクハラされてみたら分かる」
「されてみたい」
「バカ」
「逆セクハラされるうちが花」
「アホ、変態」
「十文字さんの会社はどうですか」広告代理店の亜矢子が自分の左側に座っている十文字に視線を向けた。
「うちのはいい会社です。皆いい人です」皆の話しを聞いて、十文字はまともな会社に入社できてよかった、と思った。
「それはよかったじゃない。私はサービス残業ばっかりさせられて、疲れています。仕事だからしょうがないけど」亜矢子が嘆いた。
「残業の請求はできないですか」業績がいい会社で働いて、実際にサービス残業をさせられたことがない十文字はそういう状況を理解できない。
「請求する人いないわ。サービス残業をするのが当たり前の雰囲気。週八十時間ぐらいは普通。忙しい時は百時間ぐらいする。仕事と通勤以外はなにもできません」亜矢子は疲労困憊な顔をしている。
「大変ですね」十文字が同情した。
「でも、私、来年早々やめます」亜矢子が微笑んだ。
「ひょっとしたら結婚ですか」十文字目を丸くした。
「はい。結婚します。会社の同僚です。忍君、ああ、彼の名前です。忍君と結婚したら専業主婦になります。もう働きたくありません」亜矢子の顔が桜色に上気した。一刻でも早く結婚したい様子。
「素敵。皆に報告しましょうか」十文字が飲んでいる人たちを見回した。
「まだ早いわ。そのうちに報告します」亜矢子が十文字を止めた。「十文字さんは?彼氏はできました」
「いいえ」十文字の頭の中に桂城が浮かんだ。
十文字の理想は大体二十五才ごろに、自分より最大五才ぐらい上の男性と結婚する。どういうわけか桂城のことが頭から離れない。想定外の自分の気持ちを十文字が十分理解できない。葛城は自分のお父さんと同じぐらいの年だが、いっしょにいる時は全然年の差を感じない。自分でも不思議。
「十文字さんは持ってるからこれからじゃないですか」
「そんなことないわよ。亜矢子さんに紹介してほしいわ」
「鉄也はまだ十文字さんのこと忘れていないみたい」
「もう済んだことだわ」
鉄也は学生時代に十文字に熱を上げた時期があったが、不発に終わった。
飲み会の次はカラオケ。何曲も歌って、踊った十文字はすっきりした。次の日は日曜。皆は終電の時間まで頑張った。十文字は何人かの女性の友達と近いうちに再会を約束してから帰った。最終電車は込んでいて、酔っぱらいも多い。楽しい一時を過ごした十文字はそれほど気にしなかった。
