六つの夢

                   夢三
 桂城健一は今月の成績表を見て、顔を顰めた。最近は業績が上がっていない。コンピュータープログラム会社が急激に増えて、競争が激しくなっている。業績を上げるのは並大抵なことではない。
 桂城がちらっと少し離れているデスクでお客さんに電話をしている十文字亜佐美を見た。十文字は今年に入った新入社員。入ってまもなく五千万円の仕事を取ってきた話題の新人。会社は一遍に期待が高まった。その後、営業努力にもかかわらず、なかなか仕事を取れなくなり、プレッシャーがかかり、焦っている。
 プログラムを作成するのに労力と時間がかかる。担当者が週八十時間から百時間ぐらい残業をするのはそれほど珍しくない。皆必死に働いている。プログラマが聞いたら怒るに違いないが、物を作るより、物を売るほうが大変。努力は自分でできる。物を売るのは相手がいる。相手が頭を縦に振らなければ、いくらいい製品でも売れなければ意味がない。頑張っても結果を出さなければ評価されない。結果がすべて。これがセールスの厳しさ。
 桂城はなるべく十文字にプレッシャーをかけないようにする。部長である桂城が黙っている分、十文字は頑張らなければ、と自分にプレッシャーをかける。
 電話を切って、項垂れている十文字に桂城が声をかけた。「十文字さん、お昼の時間ですよ。いっしょに食べに行きましょうか」
 「ああ、はい」壁の時計を一瞥した十文字が慌てて答えた。
 他の社員はもう十分前に食事に行った。桂城の部署は桂城と十文字が残っている。中年の桂城は滅多に一人の若い女子社員を食事に誘わない。落ち込んでいる部下を励ますのも仕事、と捉えている。
 二人は会社の近くのパスタ専門店に入った。桂城はパスタが大好き。十文字もパスタは好物。二人とも定番のミート・ソースのランチ・セットを注文した。
 「仕事は少し慣れましたか」桂城がさり気なく聞いた。
 黒い営業服を身に纏っている十文字は端正な顔立ちをしている。肩まで垂らしている長い清楚な黒髪と抜けるような白い肌が対照して、女性らしさを引き立たせている。
 「慣れたけど」十文字が少し口を尖らした。
 「あまり深刻に考えないほうがよくありません?」上司である桂城は十文字の悩みをよく知っている。
 「なんか頑張ってもうまく行かないみたい」十文字の顔が少し暗くなってきた。
 「そんなに仕事は取れるものじゃありません。だからやり甲斐があるじゃないですか」桂城が慰めた。
 「そうでしょうけど」十文字が分かっているような表情を見せた。
 「少し気晴らしすれば運が変わるかもしれない」桂城が軽い処方箋を書いた。
 「そうしますわ。土曜日に飲み会に行きます」十文字がやっと愁眉を開くことができた。
 「週末はよく遊んだほうがいい仕事ができます」桂城はよく遊ぶ人はよく仕事をする、と信じている。
 「桂城さんも来ません?」十文字が顔を少し近づけて聞いた。
 「若い人の飲み会でしょう。私はオジンですよ」桂城が呆気に取られた。
 「いいじゃないですか。飲み会は年齢制限がありません」十文字が頬を膨らました。
 「いや、若い人の飲み会には行けないね」桂城が苦笑いをした。
 「楽しいわよ」十文字の目が輝いてきた。
 「そうでしょうけど。私はもう別の世界の人間。若い人の飲み会に入ったら浮いてしまう」桂城は全然行く気がない。日本ほど年齢を気にする社会はない。若い人の中にオジンが一人入っていたら飲み会が変質して年齢討論会になる。年齢討論会が始まれば、うんざりするほど若さを自慢する人がいる。年齢はコントロールできないもの。自慢してどうする、と桂城はいつも思う。
 「週末はよく遊んだほうがいい仕事ができる、とおっしゃったじゃないですか」十文字が笑った。
 「別の遊びをします」桂城は薄い笑いを浮かべた。
 「しょうがないわね」十文字がやっと諦めた。
 注文したパスタが運ばれて来た。このお店のパスタは量が多い。一人前は普通のお店の大盛りぐらいある。食欲旺盛な二人は平らげた。よく食べる人はよく働く。これも桂城の信念。
 
 会社に戻った十文字はこれからお客さんに電話をして、営業活動しなければならない、と思うと、憂つうになる。ずっと雨が振り続けることはありえない。かならず晴れる日が来る、と知っていながらやっぱり気が重い。
 「部長とお昼に行ったの」隣の美加が聞いた。
 十文字が頷いた。できればずっとお昼を食べていて、会社に戻らなくてもいいなら、人生は楽しく生きていられる。就職したばっかりの自分が考えてはならないことだが、定年まででなくても、結婚まで、できればの話しだけれども、働かなければならない、と思うと、胃が重く感じる。普通に生きていくだけで、いかに大変であるのが実感として湧いてくる。働けば働くほど学生に戻りたい。そう思うのは自分だけではないはず。
 「いい人でしょう」美加が同意求めるように十文字の顔を見た。
 十文字がまたもかぶりを縦に振った。入社した時に、部長の桂城が女性社員に人気がある、と聞かされた。桂城は中年だけど、中年の面影がなく、若々しい雰囲気を漂わせている。仕事もできるし、部下にもやさしい。評判がいいのは理解できる。
 「ねえ、知っている?」美加が声を低くした。
 十文字が聞くために美加の顔に近づけた。
 「女性に人気ある部長だけれども、振られたことがあります」
 「本当!」十文字の昼飯後の眠気が一遍に吹っ飛んだ。
 十文字はこういう話しになるとやっぱり好奇心旺盛。仕事は後回し。他人の恋愛事情は一番おもしろい。
 「噂だけど、大学の時の彼女に振られて、今でも立ち直っていません。だから結婚していません」
 「彼女をまだ忘れていないですか」
 「それは分からないけど、女性の噂はあまりない」
 「彼女をまだ忘れていなければ、純情ですよね。今時にまだそういう男性がいるとは思いませんでしたわ。もう絶滅した種類じゃありません」
 「絶滅していないかもれしませんが、保護は必要だわね」
 「彼女はどうなっています」
 「これも噂ですけれども、結婚して子供がいるみたい」
 「誰から聞いたのですか」
 「誰でしょう。自然と耳に入ってきました」
 「噂は石からも生まれそうですね」
 「はは、面白い。仕事にしましょう」
 仕事という言葉を聞いた瞬間、十文字はいやな現実に引き戻された。