六つの夢

 正装した鹿田は退職届けをハンドバッグの中に入れた。この日は吉井の会社に行く日。転職が正式に決まったらお店へ行って退職届けを出す。二日前に吉井といっしょに食事をした時に履歴書を渡した。吉井から就職のことはもう親父の了承を得た、と伝えられた。履歴書も面接もただの形式。
 吉井家の会社に入社すれば、いずれは吉井家の人間となる。これからは安定した生活ができるのだ、と思うと、鹿田はほっとする。剛史を失うが、別の物が手に入る。すべてが計算通りに行かないのが人生。占い師が言ったように、自分は運がいい、と感謝しなければならない。
 吉祥寺にある吉井の会社に行くためには西荻窪からのほうが近い。鹿田は遠回りをして、荻窪から行くことにした。もう一度あの占い師に会いたい。鹿田は三ヶ月待って、剛は帰って来なかったけれども、吉井との関係が進んだ。予言された通りにはならなかったが、いい展開にはなっている。運がいいと言った点は当たった。鹿田は結婚を前提とするこれからの人生を占ってもらいたい。
 占い師は例の場所にはいない。露店以外に、キリスト教の伝道師がいる。
 「イエス・キリストは人類のためにこの世に生まれて、人類のために死亡しました。皆さんは教会に来ていっしょに祈りましょう。天国へ行くためにキリストを信じましょう」伝道師が声をからして通行人に呼びかけている。
 宗教に興味がない鹿田は占い師がいないか、と周りを見回している。遠い将来の天国のことよりも現世のことのほうが大事だ、と鹿田は現実的になった。将来のことは余裕ができてから考えることにした。今は自分のことを大切にしたい。
 「キリストを信じてください。教会へ来てください。信じる者は救われる」伝道師が大きい声で呼びかけている。
 ぎくっとして足を止めた鹿田が振り返って伝道師の顔を見た。まだ三十近くの普通の人のように見えるが、超然とした雰囲気を漂わしている。現世の欲望へのこだわりを捨てれば、超然とした存在になるのだろうか。
 鹿田の視線に気づいた伝道師が近づいてきて、チラシを渡した。「話しを聞きに教会へ来てください。この近くです」
 鹿田が頭を二、三度振った。宗教で問題が解決できれば、もう信者になっていたはず。剛史のために鹿田はやるべきことはすべてやった。もう神仏も宗教も信じない。なにを信じればいいのか分からないけど、伝道師の言葉が心を揺らす。
 「信じる者は救われます」伝道師が自信ありげに言った。
 「信じる者は救われます」鹿田が復唱した。胸の奥で波が立っている。
 「そうです。信じる者は救われます。是非教会に来てください」伝道師は復唱した鹿田をなんとか教会へ連れて行きたい。
 鹿田はボウッと前方を見つめている。自分の想いの中にいる鹿田は伝道師の言葉をぼんやりと聞いている。
 「来てください」伝道師がもう一度催促をした。
 「はあ 。 。 。 ああ」我に返った鹿田は慌てて言った。「行かなければならないところがあります。さよなら」
 鹿田は荻窪駅に入って、吉祥寺へ行く電車に乗った。

 駅前で吉井が待っている。鹿田を認めると、嬉しそうに手を振った。時刻は十時四十五分。約束の十一時まで少し時間がある。
 「お早う。親父が待っている。行きましょう」吉井が一刻でも早く鹿田を会社へ連れていきたい様子。両親にはちゃんと話しをした。了承が得られれば、鹿田の就職と将来の話しは決まることになる。
 「吉井さんッ 。 。 。 ちょっとお茶を飲みません」鹿田は緊張で胃が収縮したように感じたが、必死に声を平静に保っている。
 「終わってからにしましょうよ」吉井が腕時計を見た。まだ約束の時間にはなっていないが、お茶を飲めるほどの余裕がない。
 「ちょっとだけです」鹿田は冷静に言ったが、命令に近い口調だった。
 「じゃあ、行きましょう」鹿田の強い意志を感じた吉井は観念して頷いた。
 喫茶店に入った二人は奥の席を取った。昼前の時間帯はお客さんが割と少ない。運ばれて来たコーヒーにミルクを入れてかき混ぜた後、鹿田は決心したように顔をあげて吉井を見つめていた。
 「ご免なさい」鹿田が頭を深く下げた。
 「 。 。 。 やっぱり」吉井が太い溜息をついた。お茶を飲もう、と言われた時の悪い予感が当たった。
 「すみません」鹿田がまたも謝った。
 「どうして」決まっていた話が直前に翻意されて、吉井はどうして理由を知りたい。
 鹿田が頭を振った。俯いてもう悲しそうな吉井の顔を見ることができない。
 「いつ決めました?」吉井は納得のできる説明がなければ引き下がらない口調で言った。
 「 。 。 。 昨日一日考えました 。 。 。 やっぱり 。 。 。彼を待つことにしました」鹿田が下唇を噛んで呟いた。
 本当は伝道師の「信じる者は救われる」の一言で気持ちが変わった。吉井に正直に言うと、説明を要求されそうなので、吉井が諦められそうな理由にした。その一言を聞いて、鹿田はお告げを受けた、と断定した。自分が信じれば、剛史はかならず帰ってくる、と思うようになった。
 「 。 。 。 考え直す可能性はありますか」吉井は人事を尽くそうとした。大きな決断をしてから後悔する人がいるが、時間を与えればまた考え直すこともある。
 「すみません。すべて私が悪いです」吉井を諦めさせるためには決意を示さなければならない、と考えた鹿田が顔を上げて吉井の目を捉えて放さなかった。
 「 。 。 。 そうですか」吉井ががっかりしたような顔つきをした。
 「すみません」鹿田は謝ることしかできない。
 「謝ることはないよ」吉井が立ち上がって出口に向かった。
 喫茶店を出る吉井の寂しそうな後姿を見て、申し訳ない気持ちで一杯の鹿田の瞳に水滴が盛り上がってきた。自分がしっかりしていれば、吉井にこんな惨めな思いをさせることはなかった、と反省している。

 鹿田はテレビをぼんやりと見つめている。暇つぶしに買ったテレビだが、これといったおもしろい番組がない。吉井と別れてから一年経った。吉井はもう結婚して子供が一人いる、と聞いて、鹿田は吉井の幸せを祈る。
 鹿田が吉井を振ったことはアッと言う間に会社の中で噂になった。玉の輿に乗れるのに、バカなことをしたね、と言う人もいるし、金持ちの家に入って苦労するよりも、自分の生き方を貫いたほうが賢明だ、と支えてくれる人もいる。
 鹿田は正しい判断をした、と自信を持っている。もう死ぬまで剛史を待つ、と決心したから、待つことが鹿田の生き甲斐。誰になにを言われようと、自分は信念を持って貫いて行く。梃子でも動かないつもりでいる。明鏡止水の心境。周囲の雑音などに惑わされることはない。
 鹿田はお店で働きながら週一回タイプの学校に通っている。タイピストの資格を取って、転職するつもりでいる。転職してからはまた経理の資格を取って、一歩一歩進んでいく。いつかは独立する計画を持っている。目標が出来て、剛史を待つのが苦にならない。占い師が言った最初の三ヶ月はもう経過したが、後は三年か三十年。鹿田は三百年も待つつもり。
 
 子供の日であるこの日は朝から忙しい。子供のために菓子パンを買う人が朝から並んでいて、お店は猫の手でも借りたい状況。仕事が終わったのは午後九時。皆くたくたに疲れている。充実した一日を過ごした。お客さんが殺到するのは大変だが、売れるのはそれだけやりがいがある。
 帰宅する前に、休憩室で皆とお茶を飲んで一服している鹿田に、明美が突然言った。「鹿田さん、やめないでくださいね」
 鹿田が愕然とした。「どうしてそんなことを言うのですか」
 「なんとなくそんな気がします」明美が笑った。
 「どうしてそんな気がするのですか」
 「分かりません。ただなんとなくそんな気がします」
 「そうですか」
 「やめませんよね」
 「やめたくてもやめられない時があるし、やめたくなくてもやめなければならない時があります。人生は運命だからね」鹿田は哲学風に言った。タイプ学校へ行っていることは誰にも言っていない。資格を取るまでに半年はかかる。どうして明美が分かるのか、と鹿田は不思議がる。
 「そですか」明美が困惑しているような顔をした。
 「そうです」鹿田の人生は波乱の一生ではないが、運命の働きを感じることができる。自分の意志で自分の人生を生きることはなかなかできない。
 「事前に分かりますか」まだ若い明美は運命に興味津々。
 「分かる人もいるじゃないですか」鹿田の頭を占い師のことが過ぎった。彼は運命のことを全部知っている、と思わないが、いい占い師である。機会があったらもう一度見てもらいたいけど、あの時以来見かけたことがない。
 休憩室の扉を開けた芳子が頭を中に入れて覗いる。「鹿田さん、お客さん」
 「お客さん、私に」鹿田の顔に疑問符が張り付けてあった。
 「はい」
 鹿田は急いで休憩室を出て、もう閉まったお店の扉を開けた。長身の男が立っている。
鹿田は驚異の目を見張った。
 「 。 。 。 剛史さん?」鹿田が恐る恐る言った。
 「純ちゃん!」剛史が感無量に言った。
 「 。 。 。 剛史さん?」鹿田が自分の目を疑っている。「本当の剛史さん」
 「はい。帰ってきました。お母さんの家に行ってから、すぐにここに来た」剛史が涙声になった。
 「剛史さん」鹿田が走って剛史の胸の中に飛び込んだ。
 剛史が力一杯鹿田を抱きしめた。「ご免ね、待たして」
 鹿田は剛史の胸の中で嬉しい涙を流している。待っていてよかった。伝道師の一言に救われた。心の中で感謝している。
 鹿田はふっと閃いた。明美がいきなり脈略のないことを聞いたのは、自分が資格を取って退職を準備していることに気づいたのではなく、虫の知らせで剛史の帰りを察知した。剛史が帰国すれば、自分は結婚する。結婚すれば、退職する。運命は不思議。微笑んでくれてよかった、と鹿田は心の中で思った。