六つの夢

 アパートに戻った鹿田は落ち込んでいて、なにもする気にならない。賑やかな場所にいただけに、一人ぼっちのアパートは余計心寂しく感じる。披露宴での忍の親戚の会話の内容が鹿田の心に重くのしかかっている。
 鹿田の遠い親戚の中に結婚していない五十代の女性がいる。子供のころはあの人は売残った、と聞かされたことがある。自分もそのうちに売れ残りになるのでしょうか、と鹿田は思案を凝らしている。
 お茶を飲んだ後、鹿田は寝ることにした。体がだるくて、疲労がたまっているような感じがする。仕事は無理してないつもりだけど、商売が繁盛している分、残業が多くなり、体に堪える。
 寝ている鹿田は突然背中に悪寒を覚えた。布団をもう一枚被っても体は寒さで震えている。風を引いたのでは、と手を額に当てて見た。熱はないけど、悪寒は背筋をはい上がっていて、冷や汗が玉のように出ている。一向に震えが止まらない鹿田は、前風を引いた時に買った風邪薬の残りを飲んだ。効き目がない。
 薬を飲んでも悪寒が収まらず、起きて鏡を見た鹿田はびっくりして目を開いた。蒼白になった顔の右が腫れている。鹿田は呆然として、自分の異様な顔を見つめている。しばらくしてから少し冷静になった鹿田は病院に行くことにした。健康だけが自慢な鹿田は病院のお世話になることに抵抗を感じるが、不明な症状が悪化した時のことを考えると、鹿田は不承不承ながら病院に行く気になった。
 薬をもらって帰る、と軽い気持ちで病院に行った鹿田は入院させられた。先生によると、正体不明の黴菌が体内に入ったらしい。らしい、と言うのは先生も断定できない。一応すべての黴菌に対応できる抗生物質を点滴で投与する。
 普段一日中ぼうっとしていられたら、楽だろうな、と夢想する鹿田も長い時間病床で横になると退屈になってしまう。点滴しているので、体を動かすことができない。起きて暇をつぶすこともできない。まさか入院するとは想定していなかったため、退屈しのぎの読物を持って来なかった。
 吊している透明の液体の抗生物質を眺めながら、鹿田は急に心細くなった。絶対に病気にならない、と高をくくっていた自分が病床にいる。これから果たして一人で生きていけるのか、と自信喪失になってしまった。
 こういう時にはできれば剛史にいてほしいのだけれども、そうでなければ誰でもいい、とにかく側にいてくれれば、と鹿田は藁をも掴みたい気持ちでいる。会社にも迷惑をかけた、と思うと、鹿田の目尻に涙が溜まった。
 疲れた鹿田は目を閉じた。病床にいると、やることがなく、自然に瞼が重くなる。昼間に寝たら夜は眠れなくなる、と知っていながら、鹿田は睡魔に襲われている。うとうとしている鹿田は、夜のことは睡眠してから考えることにした。
 久しぶりに気持ちよく昼寝をしている鹿田は突然人の気配がして、目を開けた。吉井が花束を持って病床の側に立っている。
 「吉井さん?」鹿田が寝ぼけ眼を擦った。
 吉井が頷いた。「大丈夫ですか」
 「どうしてここに?」まだ完全に覚めていない鹿田は寝言のように言った。
 「今朝、たまたまお店に行って話しを聞いた」吉井は事も無げに言った。
 吉井はこの前鹿田と別れてから、お店に行ったことがない。偶然行った、と言うのは嘘ではなさそう。
 「大丈夫。大分よくなりました」鹿田が右の顔をさすった。腫れは大分収まったようだが、完全に消えたのではない。こういう時の顔は本当は男に見せたくない。いまさら意識しすぎる態度を現したくない。
 「ああ、これ」吉井が花束を見せた後、病床の隣にある花瓶に入れた。
 「ありがとう」鹿田の胸が熱くなった。
 「顔色はそんなに悪くないじゃないですか」吉井がじろじろと鹿田の顔を見つめる。
 「そうですか」鹿田は視線を逸らした。
 「退院はいつですか」
 「分からないわ」
 「聞いて見ましょうか」
 「 。 。 。 お願いします」鹿田もいつ退院できるのかを知りたい。
 「じゃあ、医者に聞いてくる」吉井が病室を出た。
 出ていく吉井の後姿を見て、吉井に会ってから、鹿田は初めて安堵感を覚えた。心が折れそうな時に肩を貸してくれる人がいるのはやっぱり嬉しい。吉井は剛史ではないが、いつも側にいてくれそうな気がする。誰かが支えてくれる人がいれば、安心できる。その存在を知っているだけでもなんだか心強い。
 吉井が戻ってきた。「二日後には退院できるんですって」
 「よかった」一日でも早く退院したい鹿田は口元を綻ばせた。
 「退院した後は体を大事にすることだね」吉井が諫めるように言った。
 「はい」鹿田が素直に言った。入院してみて初めて事の重大さを実感した。親兄弟がいない自分は倒れたら助けがないことを痛感した。
 「退院の時に家まで送りましょうか」」吉井が鹿田の顔を覗いた。
 「 。 。 。 お願いしていいですか」鹿田が遠慮がちに言った。
 「車がありますからたやすいご用です」。
 「お願いしますわ」
 「じゃあ、お昼頃に来ます」吉井の顔に喜びが輝いた。
 吉井が帰った後に、看護婦にいまの素敵な男性は彼氏ですか、と聞かれた鹿田は誇らしげに微笑んだ。吉井のことを初めて格好いい、と思った。自分の心の微妙な変化に驚いている。意中の人を心の隅に追いやってしまえば、他人を見る目が変わることを初めて実感した。

 吉井は次の日にもお見舞いに来た。噂を聞いた別の看護婦がわざわざ覗きに来た。若くて、長身、しかも格好いい吉井の来訪が看護婦の中で話題になったようだ。注目を集めて、鹿田は生まれて初めて優越感を覚えた。
 鹿田が退院の日は花束を持って、十一時三十分ごろに病室に現れた。既に退院の準備ができていた鹿田は笑顔満面に差し出された花束を受け取った。
 「退院おめでとう」健康になった鹿田を見て、吉井は自分のことのように喜ぶ。
 「ありがとう」自分のことをいつも大切にしてくれる吉井の優しさに鹿田の胸が熱くなった。女心が動かされた。
 車に乗った吉井は隣の鹿田の横顔を見た。「食事はできますか」
 「できます」鹿田は破顔して大きく頷いた。
 点滴が黴菌を殺したのかどうかは定かではないが、鹿田の顔の腫れが引いて、すっかり元気になった。医者も病気の原因は分からなかった。
 吉井は吉祥寺駅前の寿司屋に行った。吉井は常連のようだ。彼がお店の中に入ると、すぐに店長が来て、個室に案内された。三日間も病院のまずい食事をした鹿田は鮮やかに握られた寿司を見ると、食欲をそそられた。
 お寿司はたまに会社の同僚と食べに行くことがある。高給寿司屋に行くことはめったにない。久しぶりに美味しい物を食べて、鹿田は大いに満足した。
 「美味しい」鹿田がお茶を飲みながら言った。
 「よかった。また来てください」吉井が意味ありげな目で鹿田を見た。
 「ありがとう」吉井が微笑みを浮かべた。
 「じゃあ、近いうちにまたどこかへ行きましょう」手応えを感じた吉井はもう一押しをした。
 「はい」鹿田が悠揚迫らぬ態度で言った。吉井といれば安心感を覚える。精神的に弱っている鹿田にとっては心の支えになる。
 「仕事はいつから始まるですか」
 「明日からでも行きたいわ。皆に迷惑をかけたから」
 「少し休んだほうがよくありません」
 「休みたいけど、生活のことを考えますと、そんなに長く休めないわ」鹿田は本当は一週間ぐらい休みたい。懐の具合と同僚への迷惑を考えると、病み上がりとは言え、そう長くは休暇を取れない。
 「生活は苦しいですか」吉井が心配そうな顔をした。
 「普通じゃないですか」会社の給料は一人で生活する分には問題ない。貯金できるほど給料をもらっていない。将来の事を考えると不安。
 「鹿田さん 。 。 。 」吉井が持って回るような言い方をした。「そのことですけれども、会社をやめたければ、やめてください。少し休んでからうちの会社に来てください。一人ぐらい社員が増えてもやって行けます」
 吉井のいわんとすることがはっきりしている。転職すれば、自分の一生は決まる。いまのお店はできればやめたい。若い人がどんどん入って来て、だんだんいづらくなってきた。二十五才の独身女性は異星人のように見られて、肩身が狭くなっていく。学歴も技術も持っていない自分にとって、転職は難しい。鹿田はもっと早い段階に転職を考えた。戦後の就職難の時代に簡単に仕事を換えることができない。
 「私の仕事はありますか」鹿田は剛史のことを考えないようにした。剛史のことを考えればなにもできなくなる。
 「ありますよ。鹿田さんが来てくだされば、助かります」吉井が熱ぽい調子で言った。
 「 。 。 。 」鹿田が迷っている。自分の人生を悔いのないように生きていきたいが、正直、本当にこれでいいのか、と一瞬、剛史のことが脳裏をよぎった。考えたくないことが勝手に頭に浮かんで、鹿田は吉井が見えないように自分の腕をつねって目を覚まそうとした。
 「一応うちの会社でやってみて、仕事に向いていなければまた考えればいいじゃないですか」吉井はなんとか説得しょうとする。
 「 。 。 。はい、お願いしますわ」鹿田は清水の舞台から飛び降りることにした。もう生きることに疲れていて、安心して平凡な生活を暮らせる環境がほしい。剛史はいつ帰ってくるのか分からない。帰国しても生活できる保障がない。一人で心細い生活をするのはもうたくさん。占い師が言ったように、いまのものを大切にすれば幸せになる。鹿田は新しい人生の道を歩むことにした。
 「本当にきてくださるんですか」吉井は驚きに近いほどの喜びのこもった口調で言った。
 「へえ。お願いします」有頂天になった吉井を見て、鹿田が思わず笑った、と同時に自分が必要とされて、女性としての満足感を覚えた。
 「じゃあ、すぐに会社に行きましょう」興奮した吉井が立ち上がろうとした。
 「座ってください」鹿田がまた笑った。「履歴書がなければ行けないでしょう」
 「そうか」吉井が頭を掻いた。「明日にしましょうか」
 「履歴書を書いてから連絡します。来週の水曜日はいかがですか」水曜日は鹿田の定休日。その日なら面接に行ける。
 「じゃあ、水曜日の十一時ごろに来てください。終わったら親父といっしょに昼飯を食べましょう」吉井は予定を立てた。
 「お願いします」鹿田が頭を下げた。
 「嬉しい」吉井が思わず声をあげた。
 食後に戦後に流行りだした喫茶店でコーヒーを飲んだ後、吉井は車で鹿田をアパートまで送った。鹿田との将来のめどがついた吉井は終始機嫌がよかった。