奴隷商人の荷車に乗るまでの経緯は。
私の運命を変える出来事が起きたのは本当に突然だった。
いつもの日だった。
寝坊ぎりぎり起きて素早く着替えて朝ごはん食べて。
ぎゅうぎゅうの電車内の中、吊り革につかまっているだけで精一杯の人の尻を無遠慮に触ってくる、痴漢親父に何とか怒りを抑えて。
学校について根子ちゃん(親友。もう会うこともなくなったけど)やその他友人と話して。
昼休みには皆の恋愛話に耳を傾けながら私には縁のない話だなーと聞き流したりして。
中学の時と同じ帰宅部だったから根子ちゃんと話しながらいつも通りの時間にわが家へと帰ったのだけど。
家に帰ってリビングの中央に座り込む母親と珍しくその時間にしては家にいた父親。
私の顔を見るなりなぜか母は泣き出して。
「ごめんね」
と私の名前を連呼した。
父親は何も言わず私のことを一瞬チラリと見ただけで。
ただその時の父はすごく、一瞬だけだけど。
申し訳無さそうにしてるのがわかった。
こんなまだ日も落ちていない時間から夫婦喧嘩で、ついに離婚ということにでもなったのかなと悠長とそんな事を考えていた。
どちらについていこうか、なんて…それとも高校生になったんだからもう一人暮らしでも始めてみようかな…なんて。
そうなったら二人からお金をがっぽりもらっちゃおう。
泣いて、「私に寂しい思いさせるんだったら、せめてお金ぐらいちょうだいよ!」とでも叫べば。
二人は出してくれるに違いない……ああ、なんて悪い娘。
ごめんねお母さんお父さん。
2人にとってはたった一人の娘なのに今その愛娘はとんでもないことを考えてますよー…なんて。
ひどく馬鹿げたことを考えてたんだ、私は。
そしたらどこからか黒スーツの男の人達がどかどかとリビングに上がってきて。
「コイツがブツか」
とか言って私の肩を掴んでお父さんに言ったんだっけ。
俯いた父が微かに頷いて、母がまた涙流して。
久々の上玉だとか一人のサングラスかけた男が私の前まで回りこんでそう言うのをわりと冷静な眼で見ていた。
え、何…コレ夢? 夢ですか?
すっかり固まって何も言えない、動けない私を背にその男の人とおとーさんは一言二言会話を交わしていた。
なんか約束とかチャラとかいう単語が聞こえてくる。
…まさかとは思うけど…。
終わったらしいその人が戻ってきて再び私の肩を掴むのを感じて。
「え、あ、お父さ…!」
咄嗟に父の名を呼んでいた。
多分その時の私は。
嫌な予感と言うのを脳内でぐるぐると考えていた私は。
縋るような眼で父と母に視線を向けていたのだと思う。
そしてお父さんが私の方を見て謝るのを。
幸せになってねみたいなことを涙ながら呟くお母さんの言葉を聞いたのを。
……眺めた私の顔色は多分絶望の色を浮かべていたのだろう。
幸せとか余計離れちゃいそうな気がするんですけど、ものすごく。
半ば強引に、紐につないだ袋が引っ張られるかのように私は家を出されて乗りたくもない窓や車体。
全部が黒い車に乗り込んだ。
ただ鮮明に覚えているのは。
あの時の辛そうな両親の顔を見てこの胸が無数の針で刺されたかのように痛く、辛く感じたこと。

「………」
そして今私は奴隷馬車へと乗り、その目的地へと向かっている。
荷物は全て家に置いてきてしまった。
携帯も、鞄の中だから今私が見につけているものはこの制服しかない。
ワンピースみたいに上下がつながっている、全体が紺の水色の襟がついた、大きな黄色のリボンが襟の下に巻かれているモノ。
次期に私も。
周りにいる皆のようなただのボロい、汚れた白い? ワンピースを着るようになるんだろうけど。
「うぇっ……っ…く。ママぁ…」
しかしどうしてこの車にあんなに小さな子供が乗っているのだろう。
「……」
見ればここに乗っている人は皆女だけど歳はばらばら。
泣き出すような小さい子もいるし、私と同じような子もそれよりも少し下か、生意気そうな女の子。
美人で綺麗なお姉さん、人が良さそうなおばさん。
それに隅の方で疲れたのか、小さな鼾をかいて寝てるお婆ちゃん。
いつから…皆はここにいるのかな。
いつから…この旅を。これから行く市場というのを経験してる?
それとも私みたいに初めてという人もいるのかな。
「おねえちゃんー…」
いきなりスカートの裾を引かれて。
かと思えば意味不明な単語。
は?
お姉ちゃんって…まさか
「(どわーっ! マジですか…)」
視線をチラリとその聴こえた方に寄せて心中で悲鳴をあげた。
寄り添うようにして、私のスカートを摘んだ女の子がそこにいて。
年齢は…いくつだろ。
まだ3,4才ぐらいかな?
サラサラのおかっぱの髪にくりくりの大きな瞳。
小さい子はやっぱり可愛いー…って違う違う。
困るよ、こんな…
「ちょ、ちょっと…」
チラリと周りを見れば優しい年上のお姉さんらしき人は他の子の相手をしているか、それか疲れたのかぐっすりと寝ている人がいる。
中は密閉だから外が今何時なのかわからないけど。
でも確かに眠いような…私人の寝顔に誘われやすいのかな…。
そういえばもらい泣きもよく…というかお腹が空いてき……違う違う!!
「な、なぁに?」
ちょっと言っても離れる気がしなかったから若干口調を緩めて言う。
大した理由じゃなければ適当に追っ払っちゃおう…って、いや、別に子供嫌いな訳じゃないのよ?
ただちょっと、そう、疲れてるから、若い子の相手は、ウン。
「ちょうだいー」
その子は言いながら、私の襟元を指指した。
え…?
「それ、ちょうだいー」
二度目の言葉に、指の先を追ってなんとなくわかった。
…リボン…?
「…なんで?」
馬鹿っ、わざわざ聞かなくても良いことを。
自分よりも年下でしかも頬が痩せこけている子に出来ることぐらい…リボンをあげることぐらい。
してあげても…なんで理由を聞いたの?
あ、ほら。
聞いた途端きょとんという顔をした後なんか涙ぐんできたよ…このコ。
「ダメ……?」
あぁそんな今にも泣きそうな顔されちゃ。
なんだか悪いことしたみたいで良心が痛むじゃない。
…や、実際したか。
でもなんだかなぁ…人間の性というか。
人がほしがるものはなんだか高価なものの気がしてほしくなる。
それが自分のだと、益々手放したくなくなる。
リボンあっての制服だし。
いや一つぐらいパーツ減っても制服だけどさ。
というかどのみちこんな服、脱がなきゃいけなくな…
「こら。何してるの茶木」
不意に透き通った綺麗な声が聴こえた。
かと思ったら、私の下にいた女の子が「あーん」とか言いながらどこからか現れた白い腕に強く引かれるようにして離れて。
「お姉さんにとっては唯一の形見みたいなものなんだから。ほしいなんて言っちゃ駄目よ」
見上げると綺麗な女の人がそこにいた。
白い腕は多分この人のもの。
真直ぐ伸びたストレートの焦げ茶色の髪に漆黒の瞳。
顔のパーツは全部綺麗に並んでいてスタイルもいいし…こんなに美人な人、初めて見たかも。
「ごめんなさいね」
謝られてはっとした。
茫然と、頭を下げるその仕草にまで見惚れてしまってた自分に赤面。
言い訳がましいけど本当に美人なんだもん…。
「い、いえいえ。というか私の方こそすみませ。リボン…良いですよ」
情けないほどに言葉を切りながら、どもりながら言って黄色のリボンを解いた。
途端す…とその女の人の長細い綺麗な指を持った白い手が私の手を止めて。
「嫌でも時が経てばこのような服を着せられます。それまでは忘れないように身につけていた方が良いですよ」
忘れないように…?
「まだ奴隷になる前の、自由だった頃のあなたを。この世界に入ると年齢なんか関係なしに自分は一人だと感じてしまいます。私はこの子がいるので大丈夫でしたが…学生、ということを自分に家族がいるということを…忘れてはいけませんよ」
奴隷という言葉に心がぎゅっと締めつけられた。
ああやっぱりそうなんだな、と実感した。
でも女の子の髪を撫でながら少し悲しげに寂しげに言う女の人にその言葉に了解の意味を含めて「はい」と頷いた。
「どうして、あなた達はここに…」
聞くつもりなんかなかったのに知らぬ間に唇から出ていた。
こんなにも綺麗な女の人と可愛い女の子。
親子なんだろうけど母子二人、この道に…この馬車に乗るなんて。
辛い事情があるかもしれない…ううん、そのことに変わりはないのに。
現に自分だって借金の肩書きとかで売られたし。
(そんなの別に言ってくれれば一緒に払うの手伝ったのに。こうやって売られるよりも。帰る場所がなくなるよりも。どんなに酷い仕事しても、それで学校やめることになっても。通うお金がなくなって学校に行けなくなっても。良かったのに。お父さんとお母さんがいてくれれば、あの家があれば。あの家に私の居場所があれば。帰る場所があれば。それで良かったのに…考えても惨めになるだけだからもうやめる)
「…あ、ちなみに私は借金の代わりにです。まぁちょっと辛いですけど私で借金がなくなるなら…両親を楽にさせるなら、これで良いかななんて」
女の人がなかなか口を開かないのを見てやっぱり不味かったなと思いながらせめて聞いた私だけは言っておこうと思い。
軽く笑って、えへへと頭を掻きながら私は言った。
釣られた…のか、いや違うな。
私が笑うのを見てくすりと悲しげにその人は微笑むと視線を下に落とした。
「……わからないんです。私も茶木も、気付いたらここにいて。なのにちっとも思い出さないので、きっと以前の生活はそれほど重要じゃなかったんですね」
ふふっとその人は笑ったけど、私は返す言葉が出なかった。
外に出るときって言ったらモノとして扱われる時ぐらいで、こんな…こんな家畜同然の扱い受けてたら、普通でいることの方がたぶん難しい。
思い出しても辛くなるだけだから、それなら忘れた方がいいのかもしれない。
何を言えば、でも何を言ってもどうせもう、……ぐるぐるぐるぐる考えて出てきた言葉は「大変ですね」。
…いや、他にも言うことあっただろうに。
「大変なのは、あなたも。お互い、頑張りましょうね」
頑張るっていっても、いい人に買って貰えるよう自分磨きすることしかないのかも。
「はいっ」
元気に答えるとその人は首肯して再び頭を下げ、女の子の手を引いた。
「あっ…」
女の人が背をこちらに向けるのを見て、思わず出た声。
「まだ…着かないんですよね。ならもう少し…話したいんですが…」
自分でも何言ってんだ、と思ったけど。
振り向いたその人は良いわよと柔和な笑みを見せてくれた。