いつもの帰り道。
自宅前にいた見るからに不審者の姿に私は足をとめた。
不審者と断定するのも失礼かもしれないが、髪色がおかしかった。
銀髪。
見慣れない服装だし、イカれた野郎に違いない。
壁を背に腕を組んだその男は、私の視線に気づくと束の間目を見開いた後で半眼になり、
「……お前か」
と呟いた。
こちらに歩み寄ってきたので声を上げねば、と口を開いたら掌が覆いかぶさり片手つかまれ引き寄せられて、隣の家の塀に押し付けられた。
背中でピシリと嫌な音がする。
「ッ……」
押し付けるなんて生易しいもんじゃない。
痛い。
手首を掴んでそのまま塀にギリギリ押さえつけられる、痛い痛い痛い!!
「全然抵抗しないんだな。それともそれが精一杯か? 地上人はやはり、脆い」
顔を寄せてきた男の目は天色。
耳を隠す程に長い銀の髪もさらさらで、綺麗だけど今はそれどころじゃない。
片方だけ髪の中に見える、ガラスのように反射して不思議な色を放つ細長い雫型のピアスは、そういうオシャレなのか疑問だ。
それにしても、身長差や性別差からいって女が男に抵抗できないのは当たり前じゃないか。
ウーッとかフーッとか、獣のような声しか出せない中、男を見据えてたら(怖くて睨めない)突如頭の中で声がした。
――――――『だめっ!!!』―――――と誰かの強い声が。
本気でびっくりして、耳がキーンとした、けど途端に体を拘束する力がぴたりと止み。
どうやらこの男にも今の声が聴こえたようだ……?
解放してもまだ離れない男は、面倒くさそうに私を見下ろし。
隠そうともせず舌打ちした後で再び手を掴んできた。
「ちょっと…!」
そのままどこかへ行こうとするので抗議の声をあげたら、視界に黒色が広がった。
瞠目する私の手を引く男の背中に現出した黒い翼の輪郭。
相反する色の翼をもった女性の姿が、脳裏に過った。
天使さんとは反対の黒い翼…………もしかして。
あくま、さん?

白い長衣に銀髪、青眼は誰の目も引くのか道行く人がみんな振り返ってた。
田舎道から都会の街並み、めまぐるしく変わる視界の中私はただ見開くばかり。
ただ幾度も歩いても歩いても(早歩きに近い)不思議と足が疲れなかった。
一体どれぐらいの距離を、どこを歩いてきたのかわからない。
不意に人の波が途切れた時だった。
空間が軋むような、像の色が変わったような気がして。
私たち以外、周りはみんな風に揺らめく蝋燭の火のように、歪んで。
前を見ると透明な扉があった、(仮)悪魔が繋いでない方の掌を突き出すとその扉が開かれて。
手をひかれながら開いた扉の中に駆け込む。
どこかで見たアニメ映画のようだった。
茫然とそんなことを考えている間も、扉をくぐり雲の階段を上って。
空が近くなり、地上が遠くなる。
もしかして天国に連れて行かれるのかと思っていると、また目の前には一つの扉。
さっきと違うのは長槍を構えた白い翼の門番さんらしき人がいることだ。
彼はあくまさんの顔を見ると深々と頭を下げた。
私を見ると驚愕と嫌悪と二分したような顔をした。
……たぶん、私たちが天使や悪魔を特別な目で視るように、彼らもそうなのかもしれない。
扉をくぐるとそこは別世界で。
雲の階段から思ってたけど、急に足が軽い気がして足元を見ると雲。
雲の上を歩いてた。
ありえるわけがない。
だって雲は大気中の水分が冷えて水の粒となったものだ。
固まると雪になって落ちていく筈だけど、目の前の人をはじめとして私以外雲の上にいる人はみんな翼をはやしてる。
考えたら脳の回路がぐちゃぐちゃになってショートして、挙句の果てはリミッターが外れて狂人と化してしまうだろうから思惟しない。
それにあの時天使さんと出会ってから、やっぱり妖精界や魔法は存在するのだと信じたじゃないか。
信じ……それにしても、長いな。
いい加減、早く目的地に着かないものか。
こうなったら一人で帰るのは無理そうなので考えるのはそこだ。
それに周りの痛い程の視線も気になる。
そう思って声をかけようと息を吸った時だ。
「ぶっ!」
突然足をとめた男に鼻先から背中に突っ込んでしまった。
「わ、すみませ…」
と謝りかけ、違う、この人が足をとめたからだと抗議しようとして、
「エリ様ぁ~~!」
何やらこちらに走り寄ってくる白い翼をはやした女の子の姿があった。
女の子は大手を振りながらこちらに来る。
その頬は赤く紅潮していて瞳はキラキラと輝いてる。
男が突然歩みをとめたのはそうか彼女と話すからだと思っていると、上からは盛大な舌打ちがした。
え。
次の瞬間、辺りの景色がふっと消えて――何、瞬間移動!?――できたなら最初からしてなよー。
「小織!」
いるはずのない、私を呼ぶ声に驚いて辺りを見回すと、
「私よ私、イリヤ!」
ふふっと上品に笑う、天使さんの姿があった。
キラリと天使さんの髪の毛にある貝殻みたいな髪飾りが太陽の光りに照らされて青く透き通った。
「天使さん…!」
えっ、うそ、また会えるなんて!
嬉しくていつの間にか解放されてた手にも疑問を持たずすぐさま彼女の下へ駆ける。
「どうしてっ……あ、もしかしてここは天国もしくはあの世なんですか!? 私死んだの!?」
知らないうちに頭の上に割っかができてたらたまらないと頭の上に手を伸ばす、けど掴むのは虚空で。
そんな私の様子を見て天使さんは笑った。
「そんなわけないよ」
「でもでもっ、く、雲の上に今私は立っている訳でっ」
「イリヤ。本当にその馬鹿が、お前にとっての恩人なのか」
誰だそんな失礼なことを言うのは! と怒りに振り返って思い出した。
がしっと天使さんの細い肩を掴み顔を寄せる。
「助けて下さい天使さん! 私、あの悪魔に誘拐されそうになったんです!」
顔を近づけてわかった。
彼女の瞳はチェリーピンク。
恋する乙女の瞳の色のような、名前もかわいらしいその色。
さらりと絹糸のように垂れるパウダーピンク色の髪とよく似合っている。
最初瞠目していたチェリーピンクの瞳は、ぱちぱちと瞬いたあとやがて見えなくなり、ぷっ、と天使さんは小さく噴出した。
「悪魔……ふふっ、小織は本当に面白いわ!」
なんだろう。
別に天使さんの笑顔は可愛いから許すけど(多分バカにされてないんだろうし)、ただ後ろの方から聴こえた笑い声はなんだかムカついた。

「前に話したでしょう? その人はここ天上界の対となる世界…地底界の神王よ。イリヤが貴女をここまで連れてくるよう頼んだの。突然でびっくりしたわよね。ごめんなさい」
頭を下げられて勢いよく両手を振る。
そりゃ確かにイキナリで驚いたけど……でもなんか、イリヤさんに頭下げられる方が困ってしまうから。
「エリ様。ありがとうございました」
「後でパオラの奴にちゃんと報告入れとけよ」
ため息混じりに悪魔…否、しんおう様は言ったあと、ぼそりと「塔内までなら、禁忌にはならない筈だ」と零す。
それにイリヤさんは顔の周囲に花が見えるほど本当に嬉しそうににっこりと笑って「それで十分です」と答える。
一体何の事を? と思っていると、しんおう様の黒い翼が羽ばたき、その姿が消えた後羽毛だけが残った。
またどこかに瞬間移動したんだ……と身近で見た魔法にぽ~っとしていると、
「…さて!」
徐に手を取られて。
見るとイリヤさんの顔がすごい近くにあった。
うわまつ毛が長すぎ。
すごい美人。
しかもいい匂……いや、決して私は変態ではない。
「小織。お願いがあるの。いい?」

イリヤのお願いとは、1つ、ここで見た世界・イリヤたちのこと、イリヤの話したことはすべて内緒にするということ。
2つ、敬語をやめて、自分を呼び捨てで呼んでほしいとのことだった。
後者はちょっと美人なお姉さんと思っていたし正直ドキドキしたけど、だんだんと打ち解けてあの夏の日のように、すぐに楽しい時間へと変わった。
イリヤの話は、まだ義務教育中の私には突拍子もないファンタジーまるごと! な内容で。
この地球には元から3つの種族がいて有翼種のうち、黒い翼を地底人白い翼を天上人といい。
私は地上人という、上を天上界下を地底界、そして二つに挟まれた地上界に生きる翼のない者。
3種族は有史以前から交流があったらしいけど地上人が独自に自分たちの世界を発展させていく中、だんだんと溝が生まれ……今では完全に袂を分かってしまった。
私が彼らの姿を見て天使悪魔と間違えたことがその証拠となるらしく。
少しだけさみしく思うと同時に、みんなが知らない世界を知っているのだと少し優越感に浸ったりして。
お家に帰ってもお母さんやお父さんに話せないのがつらい程、地上世界とはまるで違うこの世界の全てが新鮮だった。
例えばそれは話の場を中庭に変えてもそうで。
見たこともない草花であふれるそこは十分楽しめて。
イリヤはあまり自分のことを話さないから私が一方的に話した感じだけどこちらが話すたびに笑顔で相槌をうってくれた。
そして楽しい時間も終わり。
御丁寧に家の前まで送ってもらい(もちろん面倒なことはせず瞬間移動だ)、
「どうもありがとうございました」
改めて私は彼女に頭を下げた。
「イリヤのほうこそ楽しかったよ。ありがとう…。はい。これ」
徐にポンっと手をたたき青のリボンが巻かれた箱を出すとそれを差し出してくる。
「今日のお礼」
「…え? いいの? なんか美味しいお茶貰ったり私ばっかりしてもらってる気が」
「いいのいいの。イリヤが招待したんだもの。貰って」
ずいっと笑顔で押し付けるように渡されれば、なんとなく拒否できない。
内心それほどいやというわけではなかったので(むしろ嬉しい)ありがとうと受け取った。
「それじゃあ。元気で」
「はい。また会おうね」
笑って手を振ると、イリヤもあの綺麗な笑顔を見せて手を挙げて。
その姿が光に包まれ消えていった。

とても素敵な出来事。
夢のようだけど、イリヤに貰ったこの箱が事実だと告げている。
リボンを解くと勝手に包みが解かれ箱が開かれて。
ビロード張の中央に、ピンク色したかわいらしいリボンがあった。
「わっ! 可愛い…!」
指先がちょこんと触れるとリボンはひとりでに一本の紐になり舞い上がると、頭の方でもぞもぞと動き、きゅっと音がした。
部屋に置いたドレッサーを見てみる。
髪に桃色のリボンをした私がいた。
髪のアクセサリー、興味はあるんだけど今までしたことなかった。
伸びてきたら100均で買ったいかにも安物ゴムで縛ってただけ。
だからすごいうれしい。
「…ふふっ」
赤い顔した女の子が照れたようにはにかむ。

「まぁ。可愛いりぼんね。どうしたの」
夜。
夕御飯を食べている時向かいに座るお母さんが訊いてきた。
お父さんは棚の上に置かれたフレームの中から私達を見ている。
「お友達にもらったの。すごく素敵な人!」
「そう。良かったわね」
私の言葉にお母さんは、一度笑顔で頷いたあと、すぐに下を見た。
無表情。
後ろでゆるく束ねただけの櫛を通していない髪にくたびれたトレーナー。
こわいぐらい感情がなくなったように感じるのは、たぶんその見た目のせいだ。
「…あまり、」
おかずの卵焼きを箸で切り分け
「あまり出歩くんじゃないわよ。外は何が起こるか知れたものじゃないんだから」
ぽつりと言ってから口に含む。
「うん」
お母さんは変わった。
お父さんが写真の人になってから感情の起伏が激しくなった。
さっきみたいに笑うこともあればとたんに今のような表情になる。
怒鳴り散らすことはない。
私や物にあたって、泣き叫ぶこともない。
もともと静かで穏やかな人だったから……。
「気をつけます」
一旦箸を置いて兵隊さんみたく敬礼する。
「……」
静かな空間に、手をおろした私はひとり小さく吐息を零すように笑った。