くだらない、と言いながら点いているテレビはお笑いのなんとか言う三人組が仕切に小さなコントを繋いでいる。万理央はくし切りにしたトマトを楊枝でついて、「なぁ。」と母親に話しかけた。
汗をかいた麦茶のグラスを手にして母親はテレビから目を離さずに「んん?」と応える。
 「かあさんさあ、」
 「うん?」
 「俺が小さい頃にさ、酔っ払ってね、どうして俺にマリオって名前をつけたか話した事があったんだけど、覚えてる?」
 「そう?そんなことがあった?」
 「なぁ、本当なの?」
 「何が?」
 「だから…マリオって名前…」
 「本当よ。いい声で大好きだったの。好きだったなあ、あの歌。」
 「あの歌?…だ、だれだっけ?」
 「マリオ・イグナス、でしょ?」
 そういって立ち上がると、母親はフフフーンと鼻歌でラテンムード歌謡のような何かを歌いながら台所へ行った。麦茶を入れに行ったらしかった。
 「万理央ー?ビール持ってこうかあ?」
 「ああ、うん。お願ーい」
 万理央はテーブルの上にくたんと腕を伸ばして答えた。万理央にはラテン系の血が流れているか。その答えはまた先送りになったのだけれど、万理央はもう今更どうでもいい、と思う。誰かを思っていてもたってもいられなくなるほどの情熱が自分にもあった。それが、血のなせる業でも、そうでなくても、ただ大事な事を成し遂げられたならそれでいい。

 万理央はふと、二階で寝ているヒナタが気になった。テレビの音は大きすぎないだろうか?晩夏に最後の力を振り絞るように生き残っている蚊が部屋に入り込んでヒナタを狙ってはいないだろうか。
 持ち上げかけた楊枝を置いて、万理央はそっと上を伺いに行った。古い家の床がギシギシと鳴る。開け放した窓から晩夏の青い風が入って廊下を駆け抜けて行った。そっと部屋を伺うと、ヒナタはタオルケットを蹴り飛ばして寝ている。万理央はそっとタオルケットをヒナタにかけて、それからもう一度振り向いてヒナタの蒲団にひざまずき、タオルケットを二枚に畳んでお腹の辺りだけ掛けると部屋を出て行った。

 「よく寝てた?」
 と母親が言う。
 「うん。」
 「そう。」
 万理央の母は目を伏せて微笑んだ。目尻に小さな皺が寄る。口元はほんの少し笑っているのだけれど、その笑顔はこの上なく幸せそうに見えるので、万理央はその顔がとても好きだった。母は、自分が幼かった頃のよくそんな顔をした。幼稚園から帰って「楽しかった?」と訊くとき。空の弁当箱を渡す時。大学の進路の話をした日。母はいつもそんな風に微笑んでいた。
 「かあさん。」
 「うん?」
 「俺を、産んでくれてありがとう。」

 そんなことを言うつもりもなかったけれど、そう、自然と口にした後で、やはりその言葉がいま、このひとときに相応しかったと思う。
 「ありがとう。」
 もう一度、その言葉を口にした時、万理央の脳裏に東京の空っぽの部屋で遥が口にしたくぐもった「ありがとう」という声が聞こえて重なった。母が俯いたまま台所へグラスを下げていく。

 明日になれば、遥がやってくる。万理央の花嫁。ありがちなお城のてっぺんでたくさんの持ち物に埋もれていたお姫様。大事な物がなにか分らなくなるほどに埋もれていたお姫様。そして万理央も、階段を昇っては降り、隠し扉に惑い、何度も城を出ては見上げて、それでもやっとたどり着いた城のてっぺんで、一度は彼女が首を振るのを見た。

── どんなゲームをやっても、必ず途中で投げ出しちゃうんだけど、あれだけは最後までやり切ったの。最後にクレジットロールが流れるでしょ?あそこで、私、こんなに頑張ったんだ!!って泣いちゃったんだよね

 (そうさ、この先に、どんな道が続いていようとも、どんなダンジョンが待っていようとも…)

 もしも、運命というものがあるのなら、多分これこそが運命なのだろう。月並みな言葉に胸焼けがするほどでも、それでも、恋に落ちてしまったのだから。

 母は泣いているのだろうか。誰にも見せないと決めた涙をそっとこぼしながら。

 ──「ありがとう」
 万理央はもう一度小さな声でそう言う。万理央の頭の中で、若かった母がクルリと指先で四葉のクローバーを回した。母がそのクローバーをそっと渡した相手は、カールした髪を撓ませて首を傾げて微笑んでいる野瀬遥だった。


     【 万 理 央 ♂ の 結 婚 】 終 わ り