最寄駅よりひとつ手前の駅からタクシーに乗る。工場の脇を通って県営運動場の近く、といつもの通りに説明する。いつもと違うのは、隣に少女が座っていることだった。ヒナタは車窓を見つめ、バスケットの中を気にし、万理央を見て静かに座っていた。車窓からの景色は殆ど変わらなかった。以前はもっと、違う町に来たかのような違和感があることもあった。季節、年月が移ろうごとに変わる景色。こんな所にと思うような所に唐突に建物が立っていたり、あるいは逆に、ここには何があったか、と思うような空間が点在していたりした。

 赤いリュックを背負ったヒナタは、タクシーを降りるとそっと周りを伺った。東京で育った子には珍しく見えるのだろう緑の木々が覆う小道で、彼女はおとなしくタクシーを降りてくる万理央を待っていた。ボストンバッグをぐんと肩に背負って、ヒナタの手を引き、坂道をゆっくりと登っていくと、間もなく万理央の実家だった。手入れの行き届いた庭先に、濡れた如雨露が置いてあるのが門から見える。
 庭仕事をしていたのかもしれない。そう思った万理央は、玄関に回らずに庭先からそっと中を伺った。母親は大きなゴミ袋をぷうぷうと広げながら庭先に出てくる所で、万理央と少女に気付いた。

 「あら、早かったね。」
 網戸を開けて、縁側に膝を折った。

 「ノ・セ、ヒナタです。」
 ヒナタは例の口調で万理央の母にペコリと挨拶をするときゅっと口を結んでその初老の女性を見つめ、その目のもう少し奥、もう少し遠くを見るような目をして微笑んだ。
 万理央の母はヒナタを手招きして近くへ寄せ、小さな手をそうっと取って
 「ひなたちゃん。」
 と、その名を確めるように言った。
 「うん。」
 「おばあちゃんです。ひなたちゃん。ひなたちゃんは東京にもおばあちゃんがいる?」
 「うん。」
 「そうね、いるわね。でも、ここではおばあちゃんが、ひなたちゃんのおばあちゃんです。」
 「うん。」
 万理央の母はそっとひなたを抱いた。西日の差す軒先に、二人の長い影が伸びていた。縁側に置かれた兎のバスケットの中で、兎が身じろいだらしくカタリと鳴った。万理央はバスケットを覗き込むふりをして、目を伏せた。年老いた母の細い肩が、ヒナタを抱きしめる腕が、在りし日の祖母になんてよく似ているのだろうと思った。
 「ほら、もう蚊が…いるんじゃない?入ろう。」
 万理央は、ヒナタの膝の裏の黒い蚊をパシンと出来るだけ優しく打ってそしてさすってやる。ヒナタは万理央の手をぎゅっと握った。兎のバスケットを渡して持たせるとヒナタは少し兎の様子を伺って、それから万理央を見た。「大丈夫よ。」とその目は言っている。それは、兎のことだろうし、きっとヒナタ自身のことだ。万理央はそうやって言葉ではない気持ちを伝え合えている自分たちが嬉しくて堪らない。万理央は「嬉しい」時にも胸が痛くなる、ということをその時に知った。

 背を少し丸めて座敷に上がった母が、二人を振り向いて微笑んでいる。良かった。本当に、これで。万理央は心からそう思った。