午後2時、引越屋のトラックが到着した。── 野瀬はとうとう来なかった。どんな答えでも良かったのに。
 自分の誠意を受け取ってもらえなかったような気がして、少し辛かった。でも、もうこれで終わり。男らしく。引越し屋の若い衆とダンボールを積み込みながら、辛い気持ちも一緒に積み込んで、遠く遠くへ行く。
 田舎に行ったら──
 ──雨の日以外は散歩に出よう。ばあちゃんのお墓まで散歩に行こう。山の上から町を見下ろそう。
 ──クローバーを摘もう。四葉のクローバーを、いくつもいくつも摘んで、かあさんにあげよう。野瀬さんにもあげたいけど。
 ──きっと、忘れられる。きっと。

 トラックを見送り、最後の引渡しの為に空っぽの部屋に残った。小さな鍵をひとつ、その手に握り締めていた。一緒に連れて行く兎のバスケットがぽつんと置かれた部屋のど真ん中に胡坐をかいて座り込み、バスケットの兎を覗き込んだ。

 何度も何度も思い出す。野瀬との出逢いの場面。再会の場面。二人で始めて行ったベトナム料理のレストラン、彼女の少し不機嫌そうな顔、クルクルと変わる表情。開かない自動ドア。地下鉄の階段。ゲームのエンドロールのように脳裏に映る彼女の面影を追っていく。
 ── 最後にクレジットロールが流れて、あぁ、私、こんなに頑張ったんだって!!
 ── あたし、何のために頑張ってるんだろう。何のために、生きているんだろう…
 彼女が出した答えなら、どんな答えでも・・・
 バスケットの中で兎が屈む。その様子は、野瀬が座り込んでいるように見えた。
 「泣かないで。」
 万理央は言った。それは、兎に言った言葉でもあったし、野瀬に言った言葉でもあったし、それから、多分、自分自身に言った言葉でもあった。

 その時、カシャリ、と音がした。それは、玄関先からだった。
 カシャリ、ともう一度音がしてドアが開いた。怪訝に眉を潜めて立ち上がって玄関を伺った万理央の胸がひとつ大きくドキンと鳴った。
 
 「野瀬さ…」

 彼女の前に、小さな少女が一人立っていた。
 どきん、どきん、どきん、と胸を打つ。
 トクン、トクン、トクン、と身体を巡っている。

 「ヒナタちゃん?」
 万理央が声を掛けると少女はこくん、と大きく頷いた。
 「ノ・セ、ヒナタです。」
 ヒナタの言う「野瀬」の言い方が、あまりにも遥とそっくりなので、万理央は可笑しくなって笑った。
 「なあに?なんで、笑うの?」
 ヒナタが小首を傾げる。ふたつに分けた髪の毛先が肩に当たって撓んだ。その撓み方までまるで野瀬のコピーのようにそっくりだと万理央は思う。
 「ママにそっくりなんだね。」
 薄暗い玄関先に立つ二人の方へ近づき、少女の前に跪(ひざまず)くと万理央はそっと少女の頬を撫でた。見上げると遥が少女を見守って微笑んでいた。
 「野瀬さん。これは、…ってことだよね?」
 遥は万理央を見てコクンコクンと二度頷くと少女の肩に置いていた手で顔を覆った。
 「ありがとう」
 くぐもった声が聞こえた。万理央は立ち上がってそっと、その手をどけた。えくぼのできる白い手。腕時計をしていない手首を掴んで顔を覗き込むと、遥はぎゅっと目を瞑って顔を背ける。万理央はその頭を自分の肩に寄せた。母親と万理央を見上げる少女の頭をもう片方の手で自分に寄せる。少女はじいっと母親を見上げていた。母の涙を、彼女はどんな思いで見守っているのだろうか。万理央はただ、ただ、二人を抱いて、この手から、自分の想いがちゃんと伝わっていきますように、と祈った。