新しいダンボールをまたひとつ積み上げて、万理央はほぅっと溜息をついた。そう、今日の午後にこのダンボールを引っ越し業者に引き渡したら、何もかも、本当に何もかも終わる。積み上げたダンボールの山をかき分けて、次の景色はどんな風に広がっているのだろうか。
 野瀬は、答えをくれるだろうか。

 やはり自分にはイタリア人の血が混じっていたのだろうか。まさか自分がとやはり不思議な気持ちになる。
 野瀬を諦めると決めて、季節をひとつ跨いで、それでも万理央はまだ野瀬を想い続けているらしかった。少しずつ癒されているはずだと思い込んでいた傷は実は絆創膏の下グズグズと膿んでいた。思い出すと辛くなるから出来るだけ避けていた、それがいけなかったのだろうか。何度も何度も思い出して擦り切れて、そうすれば今頃はもう新しい恋を、たとえばキノコの可愛い恋心を受け入れる事が出来ただろうか?

 キノコが帰った後、ひとりで強かに呑んだ万理央は酔いに任せて野瀬に電話をかけた。ほんの10分でいい、会って欲しい、近くまで行くから。
 会いたかった。一度だって彼女を抱きしめた事がなかった。手を握って歩いたことすらなかった。たった一度でも、体中で君の事が好きだったと伝えられたらよかったのに。──好きだから、そうしない。そのことを分っていても。


 でも、実際に野瀬が住んでいる町の公園にたどり着いてみると万理央には何を伝えたくて野瀬を呼び出したのか自分でも分らなかった。ただ、それが本当に最後の最後のチャンスなのだと、万理央にはそれだけは分った。

 街灯が数メートル置きに光る私道の脇を歩いて、公園に入ろうとした時、そんな真夜中なのに砂場に人影が見える。砂場の縁に座っている人影は若い頃の祖母のように見えた。その前には幼かった日の自分がいる。
 「ばぁちゃん…?」
 それは、酔いが万理央に見せた幻影だったのか、万理央が驚いて声に出した時にはもう二人の人影はなかった。
 『ほら、万理央、もう暗くなった。帰ろう。遅くなると雷さんにヘソとられっぞ』
 万理央の耳に、その声だけが響いた。

 ──そうだね、ばあちゃん。もう、帰ろう。真っ暗くなった。帰ろう。

 「小林さん…」
 春先の風が野瀬の髪を揺らす。ふわりとシャンプーの匂いがした。薄いカーデガンの腕を押さえて、困った顔の野瀬が万理央を見て言った。
 「子どもを一人で寝かせてるの。だから、」
 「うん。直ぐ終わる。」

 「俺、田舎に帰る。幸い、どこにいても仕事が出来そうだから。何をやっても、絵を描いて生きていければいいし。野瀬さん、良かったら俺と一緒に行こう?一緒に暮らそう。俺ずっと絵ばっかり描いてるけど、家のこと、ちゃんとやるよ。年取った母がいるけど、厭な姑になんてさせないし、野瀬さん働きたかったら、ヒナタちゃんも──子ども達は、俺の母親に見て貰ったら良いよ。編集の仕事にこだわるなら、ぜんぜんない訳じゃないと思う。広報とか地方紙とか、あるし。大事な事を忘れなければ、きっと、できる。

一ヶ月待つ。それで答えを出して。」

 『万理央、ほら、帰ろう』
 
 野瀬の向こうに街灯が揺れている。公園の入り口に大きくそびえているのは蕾を湛えた桜の木だった。万理央は歩き出す。そして、振り向いて「行こう。送るよ」と、野瀬に手を伸ばした。ほんの一瞬の沈黙が永遠に思える程長く感じる。野瀬はカーデガンの腕を押さえていた手を解く。

 そっと重なった手を万理央はきゅっと握った。野瀬の手は冷たかった。桜の蕾の下で一度だけ立ち止まり野瀬を振り向く。
 「どっち?」
 迷ってもいい。行くべき方向をいつも二人で見据えながら、行きつ、戻りつして、二人で歩いていけたら。大事なことは何?大事なことは、何?何度でも自分の胸に聞きながら、そうやって歩いて行けばいいのだと、祖母の声が聞こえた気がしたのは、万理央の空耳なのだろうか。