「兎っ?」
 キノコは少し早口にその単語を口にした。
 「うん」
 万理央が答えると、キノコは泡のなくなったビールを一口飲んでジョッキをゴトンとテーブルに置いた。
 「男の人って兎とか飼うんだ…」
 「んん?」
 「なんかそういうの面倒くさがるのが男の人かと」
 「そういう人もいるだろうけど。女性だってそういう人、いるでしょ?」
 「まぁ、確かに。」
 キノコの茶色い髪はまるでウィッグのようにサラサラだ。野瀬もさらさらだったなあ、毛先のカールがいつもゆらゆらしてたっけ。万理央はついため息をつきそうになって息を飲んだ。
 「元気ないですねー、小林さん。」
 「うん…。なんかね、最近寝不足だから。」
 「じゃあ、別に今日じゃなくても良かったじゃないですか。」
 「うん。ま、そうだけど。」
 「やっつけ仕事」
 「え?」
 「やっつけ仕事でしょ?面倒くさいから今日、って言ったんでしょ?」
 「別に…そうじゃないけど」
 「いーや、絶対そうです。分かります。なんですか、小林さん、私、ぜんぜん圏外ですかね?」
 「いや、そうじゃなくて…。あのさぁ、なんで俺なの?結構、年離れてない?」
 「あたし、フケ専だから。」
 「ふけ…せん?」
 「おじさんが好きってこと。」
 「はぁ…」
 「で、なんで兎なんですか?」
 「話の転換が早すぎる。えっと…兎、は…」

 野瀬への恋に白旗を揚げた次の日は、とても天気が良かった。冬の始まりを告げる風は冷たかったけれど、陽のあたる道に猫が眠るほど燦々と明るく、部屋で涙に暮れるよりも、と思った万理央は、春先に出かけた川岸に散歩に出かけた。野瀬にあげた四葉のクローバーを探した川岸だった。その岸辺をどこまでもどこまでも行ってみようと思った。小学校、区役所、家々の並ぶ場所、工場、都心でも小さな原っぱがあったりして、ついに大きな道路を横断しなければ続かないところまで出ると、万理央はようやく諦める気になった。その道路がどこなのかはっきりしないけれど、相当歩いてきたはずだ。大きな街道をこちらだと思う方向に歩道を歩いて行くと、駐車場つきの大きなペットショップがあった。窓際に小さなケージがいくつも並んでいる。耳が垂れた犬、耳をツンと立てた犬、毛足の長い猫、くしゅくしゅとした毛足の猫…そして、そこに一匹の真っ白な兎が、いた。

 その兎は幼い頃に絵本に出てきて、一番最初に兎とはこういうものです、と脳にインプットされるような、正に絵に描いたような兎だった。毛は雪のように白く、目が赤い。耳をぴんと立てて様子を伺っている。万理央がガラス窓に近づくと、兎は後ろ足で立ち上がって耳をくるりと回し、万理央のことをじぃっと伺った。それはまるで、野瀬が恐る恐る万理央に近づいて来る様子に似ている気がした。あんなに元気が良くて楽しかった野瀬。万理央が恋心と打ち明けた日から、楽しい笑顔の隙間にほんの少し辛そうな顔を見せた。少しずつ近づいていたのに。子どもの話を聞けるくらい近づいていたのに。そして、けして弱みを見せない野瀬が最後に流した涙を、万理央は一生忘れる事がないだろう。

 ポトリ、と一粒、涙がこぼれた。
 「え?」
 自分自身が一番驚いて、頬に手をやると確かに濡れた痕がある。

 持ち上げかけたジョッキを置いて、キノコが言った。
 「ぅんもーっ!そうならそうって言ってくださいよー。彼女さんの置き土産なの?それとも前妻さん?どっちだっていいけど、彼女のことまだそんなに好きならなんでこんなとこでビールなんか飲んでるんですか?」
 「…き、君が誘ったんだろーが」
 「だから、言ってくれって言ってるの。はぁー、三連敗。三連敗ですよ?私ここんとこ男運がないんだ…。小林さん、あたし、帰った方がいい?それともいたほうがマシ?」
 そっぽを向きながらキノコは言う。それが泣き顔を見ないようにしてくれている彼女の気遣いだと分かった。悪い子じゃない。自分はこの子を好きになることができないだろうか?
 ジャケットからハンカチをだして目を押さえた。
 「ほんと、ごめん。みっともない。恥ずかしいな」
 「べつに、いいんじゃないですか?泣きたいときに泣ける男ってかっこいいとあたしは思いますよ。」
 「そうかね。世代間ギャップだよ。俺は男は男らしくって育ったから…ばあちゃんに叱られそうだよ。」
 「ふうん。そっか。あたしは弟がいて、弟はすごい泣き虫だし、別にそれでいいと思ってたから。」
 「君と付き合えたら、すごい楽なんだろうな。楽って楽しいって書くよね。ほんと、そうなんだろうって思うよ。」
 「そうでしょう?私って結構いいと思うんだけど。」
 そういってキノコは大きな声で笑ってビールを一息に飲んだ。
 「小林さん、ビールもう一杯頂いていいですか?今日はご馳走になります。口止め料です。いいですよね?私、ビールもう一杯と、あと、これ、食べたら帰ります。」
 キノコはジョッキをぐいっと持ち上げ、大きな声で「もう一杯!」と言うと、テーブルの上のサラダとタラモピザを食べ始めた。万理央は苦笑いをしてビールを飲んだ。本当にいい子だ。こういう子はきっと大事なことを見失わない子だろうと万理央は思う。何度でも迷う自分や野瀬とは違う。祖母や母はやっぱり自分のように迷ったりしたろうか?自分には見せなかっただけで。
 今度田舎に帰ったら、母とクローバーを探しに行こう。万理央はふとそんなことを思う。