新しい仕事を請けるようになって忙しいことを理由にデータの納品やら打ち合わせやらをメールを頻繁に使ってあまり出版社に出向かないようにしていた。野瀬に会えば、自分の気持ちは揺らぐ。そのことだけに自信があった。ただ、その日は近くまで行く別の用事があり、久々に挨拶だけでもと大人の事情を考えて、桜餅の折りを持って出版社のムック本の編集部の受付で誰に渡したらいいか迷い、「篠原さんはいますか?」とほぼいるはずだと思った人物はその日に限って外出していた。それでは、と、担当を置いて別の人物に渡すのも気が引けて「野瀬さんは…?」と恐る恐る尋ねてみると、野瀬の方は"運悪く"在席中だった。

 「近くまで来たので久々に挨拶に…」
 「…わざわざすみません…。こちらへどうぞ…」
 「あぁ、いえ、今日はもうこの後予定があるので。本当にご挨拶だけですみません。いつもありがとうございます。皆様にもよろしくお伝えください。」

 万理央は覚悟したとおりに大人らしく挨拶をすると逃げるように背を向けてエレベーターホールへと早足に歩いた。野瀬が自分を見送ろうとして歩いてきたのが分かったので、万理央は振り向いて
 「ここで!!」と有無を言わせぬように言った。野瀬はビクリと立ち止まり、
 「はっ!はいっ!!!」と返事をして、そこから万理央を見送った。

 エレベーターホールの壁際に立って、万理央は心底ホッと胸をなで下ろした。まだ心臓がどっきんどっきん打っているのが分かった。
 (ったく、ガキか、俺は…)
 小さなため息が出た。

 やってきたエレベーターに乗り込もうと思ったとき、
 「あ!!小林さん!!髭、いいですね。ワイルドで。男っぷりがあがりました?」
 と女性に声を掛けられた。
 (キノコ!)
 「あぁ、えっと、久しぶり!」
 「ですねー!なんか、最近小林さん、いらっしゃらないですよねー」
 「そう、かな。そうだね。忙しいんだよね、割と。」
 「それはいいですねー!儲かってますねー!仕事忙しくても気晴らしは大事ですよ、小林さん。今度飲みに行きましょうよ!」
 「あー…うー…そ、そうね…」
 「いつが良いですか?」
 「君、意外と積極的だよね。意外と、でもないか?」
 「はっきり言いますね、小林さん。でも、私、誰にでもこうな訳じゃないですから」
 「はぁ、そう。」
 「で?いつがいいですか?」
 「んーじゃ、今日。」
 「今日。今日…。おっけい。分かりました。携帯電話の番号、訊いても良いですか?」
 「あー…もちろん、そうね。必要だよね。」

 
 心のどこかに疚しい気持ちがあるのは、野瀬に対してなのかキノコカットの彼女に対してなのか万理央には分からなかったけれど、携帯電話を弄りながら万理央はこれでいいような気がした。ペンタブを握り締めては野瀬を想い、兎にえさをやっては野瀬を思う。そんな自分にも飽き飽きしていて、先程の廊下にたたずんだ野瀬を思い出すだけでも切なくなる自分を、どうにかした方がいいのだとそのときの万理央は思った。キノコの携帯電話の番号を入力する指がうまく動かないのも、数字が滲んで見えるのも、全部、野瀬のせいだ。そんな自分を捨て去るための、一歩だと。