朝の陽光がデスクにうつ伏して寝ている万理央の横顔に差していた。光の粒は万理央の部屋のバルコニーより数メートル下に並ぶ樹木の新芽の薄い緑を反射しているのだろうか。万理央の部屋の中に薄青い空気が満ちるようだった。季節は春を迎えていた。


 バルコニーの棹から飛び立った鳥の羽ばたきが棹をカシャンと鳴らして万理央を眠りから覚ました。ペンを握り締めたままペンタブの上に右頬を乗せていた万理央はむっくりと起き上がり、ペンを置いて両手で顔を覆った。モニターに写されているイラストの半分には水彩のような色づけがされている。それは水平線まで広がるクローバー畑だった。万理央は手をおろしてそれを眇めて見、それからのそりと立ち上がってソファーに横になった。最近こんな風にデスクで寝てしまう事が多い。仕事が増えているからでもあるし、仕事のほかに何もしたいことがないからでもあった。

 ソファーの上に横たわった万理央は一度寝返りを打つようにしたあと、「じゃなくて…」と独り言を言うとまた起き上がり寝室へと向かった。掛け布団の上にどさりと横になった万理央は、もしそこに誰か別の人物がいたなら「気絶したのか?」と思うような様子に見えたが、また急に身体を転がして起き上がると時計を確認して、洗面所に向かっていった。

 少し痩せた。鏡に映った自分を見てぼんやりとそんなことを思う。久々の外出に髭を当たろうとした万理央は、フォームに伸ばした手を止めて、無精髭を生やした自分をまじまじと見つめた。まるで違う人のように見える。万理央はもう一度ばしゃばしゃと顔を洗うと、髭を当たらずにそのままタオルで拭いて洗面所を出て行った。

 こういう記事、こういう説明、こういうテーマで、と何かを与えられて描く出版社の仕事は、それはそれで興味深い。いつも与えられたテーマに沿って正確な絵が描けるように勉強を怠らなかったし求められる以上のことをする気になったら、それだけでも十分忙しく、十分いい収入になっていた。比較的描き手に与えられる自由度が高い雑貨や文具類、色々な媒体で使われるような素材系の仕事もこれまでに何度か請けたことはあるけれど、昨年の夏ごろから取り掛かった雑貨の仕事をやった時には、あまりにも自由度が高すぎ最初はどうしていいのか戸惑ったけれどそういう仕事の面白さもよく分った。そういう仕事は、子どもの頃、絵を描くのが楽しくて仕方なかった頃を思い出したりした。

 新しい分野の仕事をもっとやってみようと思ったのは、そういった絵を描き始めた頃を思い出したこともあるし、でも、本当は失恋の痛手をできるだけ軽減してやろう、という下心だった。実際、仕事はある程度よく効いているのだ。他の何よりも。ただ、癒えたとは言えない胸の痛みに手をやって、万理央は部屋の入り口からPCモニターのクローバー畑を眺めた。

 冷蔵庫からボトルを出して、こくこくと水を飲む。朝のこの水は、目に見えるわけではなくても、それでも自分の体の細胞分裂にきちんと加担している、という気がする。確かにそうなのだとすれば、日々自分は細胞分裂を繰り返し新しい自分へと生まれ変わっているはずなのに、どうして心の傷は癒えにくいのだろう。大人になった自分の身体の新陳代謝や細胞分裂が小さい子どものそれにくらべて劣ってきていると理解できているが、心の新陳代謝だけは大人になるにつれて随分良くなったと、少し前の万理央は思っていた。初めて恋に破れた日を思えば、大人になって繰り返す恋とその過ちは、さほど万理央を傷つけなかった。人並に泣くこともあったし、それなりに傷ついたけれど、一晩酒を煽って泣いて、翌日はもう飲めなくて泣いて、そんなことを三日四日やっていれば一週間後にはもうケロリと笑えたりする自分に驚きながら、恋人との思い出を思い出してはキュンとする一ヶ月を向かえ、いつしかそんなことが少なくなって3ヶ月、半年、と傷みは薄らいでいく物だ。
 
 (それなのに…)
 特効薬に助けられながらここまで来たけれど、今回は少しばかり治りがよくないな。傷が深かった、と万理央は思う。思い出せば傷む胸をぎゅっと押さえて背中を丸める。一時(いっとき)そうやって、涙が出そうになるのを堪えると、なんだか心臓が悪いおじいさんのようだ、と万理央は最近いつもそんなことを思った。

 カチャン、と音がする。でもそれは今度はバルコニーではなく、室内から聞こえた音だった。万理央は音のする方へ歩いて行った。真っ白な小さな兎は真横を向いて多分その目で万理央が歩いてくるのを見ていた。万理央はケージの前にしゃがみこんで兎を見つめた。空っぽになった皿を取り出してザリザリとえさを入れ、またケージの中に手を突っ込んだ。うさぎは、万理央の手が引っ込んでからも暫らく様子を伺うようにしてそれから急にお皿に顔を突っ込むようにしてカリカリポリポリとえさを食べ始めた。
 「寂しくないよ。」
 万理央が声に出して言うと、兎はその言葉をもう一度聴こうとするように耳をくるりとこちらに向けて少しだけ食べるのをやめたようだった。
 「お前がいるからね。」
 ケージを人差指で撫でて、万理央はそうっと立ち上がるとソファへ戻りニュースをつけて今日の予定を立て始めた。テレビでは春らしい桜色のジャケットを着たニュースキャスターがにこやかに桜前線の話をしていた。万理央の田舎ではもう、桜が咲いているのだろう。祖母の墓へ向かう山道は桜の木が多い。あの桜はもう咲いたろうか。あの山から見える景色。その点々と見える桜の柔らかい色が万理央の瞼に映る。