打ち合わせが終わって、野瀬がほっとした小さな溜息を漏らす。厳しい顔が和らいで、その顔はいつも少しあどけない。
 「野瀬さん…」
 万理央の真剣な声色に少し不安そうに顔を上げた野瀬から目を逸らして、万理央は続けた。
 「大事な話、なんだ。この前の、ヤメル、ヤメナイの話なんだけど。」
 「…。えぇ。」
 「いつでもいいんで、都合が良い時…」
 野瀬は万理央を見ない。分厚いシステム手帳のスナップが外せなかったのはたまたまだろうか。手帳を確認する仕草で、野瀬は
 「追って、ご連絡では…?」
 とビジネスライクに言う。
 「出来れば今、決めていただきたいのですが。」
 万理央も負けずにビジネスライクに答えると、野瀬は少し困った顔をして「では、・・・」と予定を切り出した。

 もしかしたら「家庭(いえ)の都合で…」とかそんな言い訳で、会うことも出来ないだろうか、と少し思っていた。もし会えなくても、ちゃんと言いたい。もし会えないなら電話で、電話にも出てくれないなら打ち合わせの時に、絶対に言ってやるつもりでいた。万理央は予定の日の朝も野瀬から電話が掛かってくるかもしれないと携帯電話を睨みつけていたが、とうとうその電話は仕事の用事以外で鳴らなかった。その日、万理央の予定はたった一つだ。大事なことを大事な人に伝える。万理央は薄いオレンジ色のシャツに紺のセーターを着ていつだったか、野瀬が着ていたオレンジ色のジャケットを思い出していた。それから、仕事用の鞄に小さなクリアケースを入れ、コートを羽織った万理央はマンションの部屋を出ると寒さに少し背を丸めた。

 こんな話をするのでなければ、薄暗い照明はあるいはいい雰囲気なのだろうが、こんな時はどうも万理央の不安そのままのような気がしてあまり気分が良くない。それでもそのグリルのレストランが一番落ち着いて話しが出来るだろうという気がした。焼いた肉の匂いがする。でも、良い空調が入っているのかもしれない、レストラン中に充満するほどではなかった。
 万理央も野瀬も肉ではなく魚のグリルを頼んだ。白いワインがオレンジ色の光を写して輪を見せている。

 「野瀬さん、俺、やめるよ。」

 野瀬の顔がどんな風に歪むのか見てみたい気がしていた。野瀬の表情は、でも、変わらなかった。きっと、万理央がそう言うのだろうということを、野瀬は少しは考えていたのだろうと万理央は思った。万理央はワイングラスを持って一口、口をつけた。
 「何とか、言ってよ。」
 「…別に。言う事なんて。やめた方がいいって言ったの、あたしだし。」
 「そっか。」
 ワイングラスを置いて、万理央は野瀬を見た。薄暗い小さな光の下で野瀬の伏せた目はいまどこを見ているのか、万理央には分らなかった。そして、言うべきことを言う、その決意を新たにして万理央は続けた。ワイングラスの内側に気泡がぷつぷつと立っているのが光っていた。
 「野瀬さん、分ってないって、言ってただろ?俺が、野瀬さんの状況なんか、分る訳ないって。」
 「ん…」
 「分ってるよ。分ってて好きになった。野瀬さん、俺ね、コンガイシなの。」
 「え?」
 野瀬がはっと頭を上げたのが分った。万理央はワイングラスを見つめたまま少し笑った。笑顔を見せることで、強さをかき集めるようにして、この先を続ける力を貯めた。
 「婚外子。父親の顔は見たこともないし、どんな人だったのかも ── 聞いた事もない。」
 野瀬を見ると、それは万理央の話であるのに、なぜか野瀬は泣きそうな顔をしていた。

 「だからね、俺、そういうのは、つまり、所謂<略奪>みたいのは、やっぱり、どうしても生理的に駄目だったはずなんだ。それなのに、どうして野瀬さんのこと好きになっちゃったんだろ、ほんと。」

 ブツブツと途切れる万理央の言葉は、ちゃんと野瀬に伝わっているだろうか…。もう少し、もう少し、伝えること、ちゃんと伝えないと。

 「分ってた。なのに好きになって。でも、友達ならいいだろ、って一度自分に言い訳したら、それならいいはずだって思えた。その…時機が来るまでそうやっていればいいじゃんって。でも、さ。」

 万理央はワインを少し揺らした。薄い灯りが反射するワインの面が昇っていくリングのように揺れている。フラフープのように揺れるその面が静まっていくのを見守りながら、万理央は続けた。

 「野瀬さんは、辛いんだろ?すっごく、色んな事があって、その人と一緒にいるんだよな。この前俺、紙一枚って言ったけど、紙一枚出してないからこそ、きっと…。」

 そして、
 「──あのね、これ。」
 万理央は足元に置いたナイロンの黒いバッグを取り上げて、中から葉書大のクリアファイルを出しすとそれをテーブルの端にそっと滑らせた。

 「四葉のクローバー。よく母がこうやって押し花にしてくれたの思い出して捜しに行ったんだ。いつか野瀬さんにあげたいって思って。俺、いつも母親から貰ってたんだ、四葉のクローバー。野瀬さんも、きっと同じだろ?自分のこと、二の次にして、あげちゃうだろ?だから、野瀬さんの分は俺があげたいって思ってた。

 大事な事は、好きだっていう気持ちで、それを忘れちゃいけないって、母と祖母の口癖だった。好きと思う気持ちを汚したりしてはいけない、って。だから、決心できたんだ。野瀬さんのこと好きだから、野瀬さんが辛くないことを選ぶ。それが俺の『好き』だからさ。

 俺はね、野瀬さん、俺は、野瀬さんに家庭があるから、とか、複雑な事情があるから、とか、そんな理由で野瀬さんを諦めるわけじゃないんだ。それを分って欲しい。そういうことひっくるめて、ちゃんと色々考えて、それでもやっぱり野瀬さんのこと好きだって思ったから、だから、野瀬さんが望んでくれるならトモダチとしてでいいから側にいたいって、そう思った。俺が、ほんのちっちゃなんでもいいから、野瀬さんの四葉のクローバーになれたらそれでよかったんだ。だけど、そういうのが結局野瀬さんのこと辛くさせたり、野瀬さんの『大事なもの』を傷つけたりする。好きっていう気持ちを汚したりすることになる。野瀬さん、そういうのが辛いんだろ?だから。だからもう…」

 いつからなんだろう。
 零れ落ちる涙を拭う事もせずに二人はただ見つめ合っていた。