秋の深い空は青く澄んで、かさかさとなる水気の少なくなった木々のざわめきが聞こえた。万理央は細長い仏花の束をふた束抱えて、なだらかな山道を登って行った。見下ろせば東京のようには一台一台のカースペースの区切りもない駐車場に一台、母に借りてきた銀色の軽自動車が停まっている。目線を上げると、少し遠くまで見える景色は田畑の中に家々が点在し、田舎町の風景が、ともすれば強く波立ってしまう万理央の心を穏やかにした。
 体重を前に前に預けながら、一歩一歩を踏みしめるように歩く。木々の天井は急に開いてどこまでも青い空が目の前に広がった。

 枯葉を一枚底から拾って水桶をふたつ固い蛇口から水を満たした。毛羽立ったたわしの中からひとつマシなものを選んで段々畑のような墓石の中を進む。確かこのへん、確かこのへん、と久々にの祖母の墓参りを詫びながらそれでも間違いなくたどり着いて、万理央はほっと溜息をついた。半分枯れた仏花がしゅんとこちらに傾げているのが、祖母の手のように思えて切ない。それでも、花がある墓はその辺では祖母の墓だけで、母が祥月に墓参りしているのだと思うとありがたく、一人きりで、と思うと侘しさに胸が痛かった。
 祖母の手を取るように優しく古い花を引き上げた。花屋の名前が入った包装紙を破き、花挿しを洗って活け、湯のみを洗って、墓を丁寧に洗う。線香は手水場の横で買ってきた。ライターはそこにあったものを借りてきたものだ。些細なことに行き届いた田舎の寺に感心したばかりだった。

 手を合わせて胸のうちで祖母に語りかける。
 父親のいない子を産んだ母、を産んだ祖母。何も訊くんじゃない。何も言うんじゃない。男らしく、万理央、男だろうが?最後は何も分らなくなった祖母は、万理央が帰ったときだけいつも言葉にならない声を上げて何かを訴えていた。
 「万理央、元気なのか?」「万理央、めそめそしてねえか?」「万理央、泣くんじゃねぇぞ。」「万理央、調子にのっちゃいけねえ」「万理央、ありがとう、は?」「万理央、しゃんとしなさい。」「万理央、」「万理央、」

 「ばあちゃん、」
 万理央は声に出して言う。
 「だんなさんが居る人、好きになっちゃった。こういうの、一番嫌だったのにな。カエルの子はカエルって言われちゃうもんね。よくある話なのにさ。」
 ── 万理央、よーう、来たねえ。
 「こんな時しか来ないなんてなあ、ほんと、ごめん。」
 ── 万理央を泣かせんなら、ばぁちゃんが化けて出っから。
 「あぁ、そうだ、ばあちゃん、よくそう言ってたねえ。野瀬さんに言ってやってよ。ふふふ。」
 ── だから、万理央は泣くんじゃねえよ。男の子だろ。だーいじなことはちゃーんと分ってな。
 「大事なこと…」

 俺は何で生まれてきたんだろうね。俺を産んで育てるってかあさんが決めた日、どんな日だったんだろう。それを聞いた時、ばあちゃん、どう思った?かあさんは、どうして俺を生むなんて決めちゃったんだろうって、後悔しなかったかね。ねぇ、ばあちゃん、かあさんは、迷ったりしなかったんかね?なぁ、ばあちゃん、なぁ?

 一番大事なことを、忘れちゃいけない。
 人は、お腹が空いて、ご飯を食べて、寝て、トイレを汚して、部屋の隅に埃が溜まって、そうやって生きていく。それでも、大事な事は忘れちゃいけない。大事な事は「好きだ」という気持ちだ。

 男の子なのに、絵を描く事が大好きだった。友達やおばさんたちに「絵ばっかり描いてる」と言われる事があっても、母と祖母だけは何も言わなかった。「好きなんだろ?良いよ、それで」「好きなら嫌いになるまで続けたらいい。」「自分が好きなことはちゃんとやりなさい。最後までやりなさい。」

 ── 迷ってもいい。たんと迷いな。ほんでも疑っちゃ、いけねえ。男だろ?自信を持って生きろ。

 大学を選ぶ時にも、普通の大学に行ってサラリーマンになることを選んだ方が身のためではないかと悩んだ事があった。芸術を専攻した大学に入ってからだって、アルバイトで始めたイラストの仕事を続けるか、サラリーマンになるか悩んだ事があった。それでも、祖母も母も「それでよしとするような男は、ろくな男ではない」と万理央を叱り飛ばした。自分の好きなことを続けていく勇気を持て。それが「自信を持つ」ということだろ?自分にはできないんじゃないか、なんて自分自身が自分を疑ってはいけない、と。


 「人は、お腹が空いて、ご飯を食べて、寝て、色んな物を汚して生きていく。それでも、自分の好きなものを汚すような事はしちゃいけない。少しくらいお腹が空いても、少しくらい寝るところが狭くても、好きなことをちゃんと大事に続けていく事が出来るなら、きっとそんな些細な事はどうでもいいことなのだ」と。


 きっと母は、好きだから産むと決めた。祖母も、好きなんだから産めと言ったろう。きっと母は、後悔もして、愛して、生きてきた。自分の生き様をちゃんと俺に伝えて。俺は、生まれてきた。生きてきて、これからも生きていく。迷って、何度も迷って、それでも、ちゃんと好きなことを大事にして生きていこう。自分の大事な人に、大事にしていると伝えて行こう。いつか(できるなら)自分の子どもたちに、「好き」という気持ちを大事にしろ、と伝えてやろう。祖母がそうしてくれたように。母がそうしてくれたように。