雑貨用のイラストのデータを納品に外出するからランチを一緒に食べよう、と野瀬を誘った。出版社のビルからほど近いうどん屋で二人は鴨うどんを啜っていた。
 野瀬の子どもの話をできた、その事がどれほど万理央を鼓舞したか。万理央はラスボスとの対決を念頭に入れ始めている。その素振りも見せないとそう決めたけれど、走り出すような想いはきっと隠せない。


 他愛も無い話をしていた二人が同じタイミングでうどんを啜り、ふと沈黙が訪れた時、微笑みを湛えた万理央をチラリとみた野瀬が、うどんに息を吹きかけながら言った。
 「ねぇ、私…──た方がいいよ。」
 「え?何?何て言ったの?」
 野瀬はつるつるとうどんを啜り、目だけを動かして万理央を見た。ちゅるん、と、薄く煮たうどんの端っこを口に納めてそれから万理央をしっかりと振り向く。口に入れたうどんをよく噛んで飲み込むと、
 「もう、私のことなんて、止めた方がいい」
 と、先ほどよりもすこしだけゆっくりめにもう一度言った。
 「は?何言ってんの?」
 「時間の無駄。──だと思う。小林さんさ、まだいくらでもやり直せるじゃない?ほら、春先の壮行会で、覚えてるでしょ?小林さんさえ余所見していなければあぁいう…」
 「余所見って何?俺が?」
 万理央はかしゃんと音を立てて箸をどんぶりの前に置いて少し声を荒げて言った。
 「ちょっ…声、大きいよ。」


 雑貨のイラストを描きながら野瀬の娘の事を想像したから、彼女を見守る自分の姿をほんの少しでも想像したから、自分の想いと彼女の想いとの齟齬の大きさに愕然とした。
 いつか時が経てばきっと、向かい合う日が来ると思っていた。あの夜に野瀬の心の小さな小さな鍵を確かにその足元から手にしたと思った。小さな鍵で小さなドアを開けて、『それでも』というその言葉を幾度も重ねた万理央の気持ちを大事に、大事に伝えたはずだった。

 ──それでも、いい。野瀬さんがいいって言ってくれるまで、好きだとか、言わないから。
 頭の中で反響する自分の声。


 万理央は箸を持ってうどんをずるずると啜った。怒りに任せるように噛み砕いて、つぎの言葉を捜す。どうやって罵ってやろうかと言葉を捜す。

 (何でそんなこと言うんだよ?止められるならとっくに止めてるよ。止められないから、だから、それでもいいって言ったじゃんか。あんただって、好きになるって── 今はまだだめだけどって言ったんじゃんか?)

 止める?
 止めるって何を?
 始まってもいないんじゃないか。

 「何の話してるのか、分からない。」
 万理央はうどんを飲み込んで言った。
 「小林さん…」
 「何の話?ねえ?トモダチとかなんて止めるとかそういうんじゃないだろ?」
 万理央は『友達』という言葉を強調するようにそう言って、鴨肉に食らいついた。
 「友達…ね。うん。そうね。」
 野瀬はうどんを掬った手をもう一度下ろした。それから俯いて少し何かを考えているようだった。


 そしてポソリと言う。
 「あの、ね…。私、籍は、入ってないの。」


 何を言っているのか、一瞬分からなかった。万理央は箸を持ったままゆっくりと野瀬を振り返った。つるりとうどんが滑ってどんぶりに落ちる。
 「な…?」
 「ね?面倒くさい女なのよ。簡単な話じゃないの。私なんか、重すぎるよ。本当に。」

 野瀬はつるんとうどんを啜る。ワイン色のベルトの腕時計があと20分で昼休みが終わると告げている。