そして恋をする者におしなべて訪れる相対性理論の証明を万理央もご多分にもれず何度でも解き明かす。野瀬と過ごすわずかな時間はまさに矢のごとくに過ぎていくのに、彼女に再び会うまでの時間はなぜこんなにも緩やかに過ぎていくのだろうか。それでも、確実に二人の時間を重ねてきた、と万理央はペンタブの上でペンを動かしながらそう思う。時は過ぎ、また秋が訪れていた。

 ほんの少しずつではあるけれど、意識して避けていた話題を持ち出せるほどには信頼関係ができてきたということだ。野瀬は明らかにその話題を避けたそうであったけれど、こんがらかったイヤホンのコードをほぐすように、丁寧に言葉を選んだ、万理央の誠意を野瀬は少しずつ受け入れてくれている。

 来春には店頭に並ぶ予定の雑貨のイラストの仕事を請けていた。あれこれ下調べをしながら、なんとなく野瀬の子供は女の子だったろうか、とか幾つだろう、とかあれこれ考えていた。先日、毎月の打ち合わせの折にランチをともにして、万理央は現在雑貨の仕事を引き受けていること、ラフを作りながら下調べをしていること、世代や性別を超えたものを作り出すことの難しさや喜びを語り合いながら、ごく自然に野瀬の子供のことを聞き出すことに成功したのだった。
 ランチセットのペンネをつついてトマトソースを掬った手を止めて野瀬は少し戸惑ったような表情(かお)をした。それから万理央を見て多分胸の中で少し葛藤をやりとりした後に、ひとつ、ふたつと話し始めた。少女の話をひとつするたびに、野瀬の表情は穏やかになるようだった。秋口の穏やかな光が差し込むレストランの二人掛けのテーブル。野瀬の背後に掛かっていたどこか異国の船着場の油絵。野瀬のオレンジ色のジャケットとトマトソースの配色。万理央はこの景色を一生何度でも思い出すだろうと思った。

 好きだと思う気持ちを前に、条件など何の決め手にもならない。前に進む時にも、背を向ける時にも、条件というのはほんの小さな言い訳にしか過ぎないのだと、この恋を知ったから思う。
 野瀬遥という人物にささやかな恋心を抱くだけなら見て見ぬふりで続けていくこともできたかもしれないこの恋の条件を万理央はまっすぐに見据えて行くと決めた。まだ、まだ、まだずっと先の事だろうけれど、それでも、と万理央の心は突き進む。その一歩を踏み出せた、と思う。

 なぜこのゲームを始めたのか。その理由は、このゲームが今の自分や未来の自分にもたらす何かを期待しているわけではなく、ただ、楽しいからだし、辛いことや悔しいことすらもただただクリアしたいと思う強い気持ちで乗り越えていけるからだ。万理央は自分に念を押す。このゲームの先に何が待ち受けているのか。ラスボスとの対決を自分は望んでいるのか。そしてラスボスが去った後に訪れるあまりにも普通過ぎる日常──重い荷物を背負ったお姫様を、万理央はこの城から連れ出して、そして、庭を歩いて、二人と一人で町に戻って穏やかに月日を紡いでいくことができるのか、と。

 (マグカップは小さな女の子には重たいのかな。)
 ツインテールの女の子がバスケットを持って野原の小径を歩いて行く。その道はいつまでも果てることがない。毎日をこうやって繰り返していく。飽き飽きする日もあって、それでも穏やかに過ぎていくだろう。バスケットの中にたくさんの経験や思い出を詰め込みながら歩いて行く。そうやってきっと少女は大人の女性になる。少年は土管の前で仁王立ちになっている。得意げな顔は凛々しく笑っている。この秘密基地に誰を入れるか、そして誰を入れないのか。自分が守りたいものを図っている。そうやって少年はきっと大人の男になる。マグカップ、クリアファイル、小さな袋物。切り取られる風景を丁寧に描きながら、この雑貨達が使われる日常風景を思い描きそこにいる自分をも想像してみる。
 たとえば、野瀬によく似た少女がフラワープリントのカバーが掛かったベッドに持たれて飲むミルク。たとえば、野瀬によく似た少女がプリントを挟んでいるのは校庭を見下ろす窓辺の席。お弁当箱を入れた小さなトートバッグを急いで取りに戻る少女は編み下げの片方のゴムを解きかけたりしている。そんな些細な所まで。そして、もし、自分がそこにいるのだとすれば、そこに至る道程が如何に困難を極めた後なのだろうか。自分は微笑んで彼女を見つめているのだろうか。

 この雑貨達が店頭に並ぶ頃に、ラスボスとの対決を試みてみようか。君を思い描(えが)きながら描(か)いたと、少女に手渡してみたい。君のお母さんを好きになってしまった、と伝えてみたい。彼女はバスケットに入れてくれるだろうか。馬鹿な男が始めた恋の物語を。それとも、少女にとっては、ラスボスが王子さまで自分こそが悪役なのかもしれないのだけれど。
 
 小径を歩く少女の歩く後ろに、少年の立つ土管の反対側に、白い小さな兎を一羽づつ描き足してみる。その兎が授けてくれる何かを万理央は期待しているのかもしれなかった。