「ねぇねぇ、小林さんて、独身なんですよねぇ?」
 モードな茶色いおかっぱ頭はありし日のブリティッシュポップスの巨匠よりは少し長めだ。
 「え?あー、うん。そうだけど。」
 泡のないビールをトクトクと飲んで、さり気なくふたつ隣の席に目をやると、野瀬は聞いているのかいないのか、チューハイのジョッキを置いて、サラダのレタスにベーコンビッツを乗せているところだった。
 打ち合わせのときに、編集部の誰かの壮行会をやるけれど来るか、と野瀬が誘ってくれた。忘年会の夜以降、万理央はひと月に一度、ランチや夜ご飯に誘うようにしていた。あの夜に約束したとおり、万理央は、野瀬に好きだ、と言う言葉も、好きだ、という素振りも見せなかった。担当者とイラストレーター、それならばいいだろう?それでも、野瀬が自分から声を掛けてくれることはほとんどなかった。

 相変わらず豪快に可愛いな。もう遠慮もなくそんなことを考えながらその口にには大きすぎるレタスを突っ込んでいる野瀬を見ていると、視界の端から突然飛び出してきて攻撃を仕掛ける敵キャラのように、キノコカットの女が性懲りもなく万理央に話しかける。
 「カノジョさんとかいるんですか?」
 キノコ頭はテーブルの上に腕を組んで首を傾げた。
 「は?…あぁ、いや。いない。」
 「特定の人はいない、っていうことですか?」
 「え?どういう意味?」
 「だって、小林さん、普通にモテそうじゃないですか?特定のカノジョはいないけど、とかかなって。どんな娘(こ)が好みですか?」
 「あのねぇ…、俺、バツイチだよ?」
 「あぁ、ええ、知ってますよー。今時バツがいっこにこついてもダイジョブですよ、ぜんぜん。で、どんな子が好みなんですか?」
 「さあねえ。」
 万理央は大きな溜息をついて、トイレに立った。

 酔っ払ったふりで絡み付いてくるキノコを振り切って、お疲れ様でしたーと輪に背を向けて歩いていく野瀬を追った。
「ごめん、君と逆なの、ごめんね。またね。ちょっと、野瀬さーん。同じ方向だよねー。」

 静かになるビジネス街の方向へ言葉もなく歩いていく。何か言いたげな野瀬の肩は少し張って、万理央を近づけまいとするようだった。地下鉄の階段の前で、野瀬は万理央を振り向かずに「じゃぁ」と言った。万理央は、野瀬の手を引きそうになる自分の手を急いで引っ込めて、「ねえ!」と呼びかけた。野瀬はぴたりと止まって振り向く。それでも、万理央を見ようとはしなかった。

 「やっと野瀬さんから誘ってくれたと思ったら、コブつきだなんて。」
 「コブ…って、それ、あたしには洒落にならないからやめて。」
 「そんな話してないでしょ。コブの種類も違うし。」
 「…そう?それで、どんな子が好みなの?」
 「明るくて元気な人が好き。それでモリモリ食べる人。」
 「ふぅん。あの子、明るくて元気じゃない。」
 「好みじゃないよ。俺の好みを知ってるくせに。」
 「そういうこと、言わないって言ってなかった?」
 「そっちが先に訊いたんでしょ?」
 「──小林さんの前に座っていた子、」
 「うん?」
 「あの子、よく似てるって言われる。」
 それは、キノコ頭と野瀬の間に座っていた子だった。キノコ頭に話を突拍子も無い話を振られても冷静に答えている姿は確かに印象的で、見た目の柔らかい雰囲気に反してシャープな受け答えをする所は野瀬と雰囲気が似ていた。
 「そうね、似てたね。雰囲気も似てたし、話すこともよく似てたよね。」
 お互いに伝えきれない何かがわだかまって都会の春先の夜に浮いた。
 「…。あたし、帰るね。またね。」
 野瀬はその沈黙に耐え切れなかったのかボソリと呟くように言って地下鉄への階段を一歩降りる。
 「野瀬さん。」
 「何?」
 「あの子は確かに野瀬さんとよく似ていたけれど、もしも、俺が、野瀬さんのことを好きだったとしたら、あの子のことを好きにはならないよ。決定的に違う事がある。あの子は、野瀬さんじゃない、ってこと。もしも、俺が野瀬さんのこと、好きなら、の話だよ。」
 「そう・・・。」
 「そう。」
 「おやすみなさい。」
 「ねえ、野瀬さん。また、誘ってよね。コブつきでもいいし、コブなしならもっといいけど。」
 「そういうこと、言わないんじゃなかったの?」
 「何が?」
 「二人で、飲みたいとか。」
 「それは、いいんじゃない?トモダチとして、二人で飲みたいんだよ。別に構わないでしょ?それと…」
 「何?」
 「いや、なんでもない。またね。」

 本当のコブつきでもいいよ、と言おうとしてやめた。たぶんまだ、そんな言葉を受け取れるほど野瀬は万理央に心を許してはいないだろう。そして万理央もまた、その言葉を軽薄に口にするほど遊びではなかった。

 敵はあらゆる手段を使って万理央を城から遠ざけようとする。それでも万理央はまだ諦めていない。持ち物の多いお姫様が待つ城の上に向かって、長い階段を一歩一歩上り、廊下に待つ一つ一つのダンジョンをなんとかやりすごして、デコボコ道をひたすら走って、向かい来るキノコをやっつけながら、ひとつひとつの鍵を取って、お城のてっぺんへと昇りつめる勇気を貯めている──のかも、しれなかった。