どこまでなら友情だろうか。「友達」は手を握ったり、抱きしめたりするだろうか。肌を重ねたいと思う。その気持ちは確かにあるけれど、青臭い恋のようにそれを求めることで恋や愛を確認したい訳でもなかった。それでも、やはり目の前にいる彼女が毀(こわ)れてしまいそうに見える瞬間があって、万理央は手を伸ばして触れたいと思う。毀(こぼ)れ落ちてしまわないように、手のひらで受け止めたい。この腕に抱きとめたい。自分は手にも触れないで彼女をどこまで慈しむことができるのだろう。

 彼女がそれを望んでいるのならと力強く誓った言葉がどうかすると揺らぐのは、最近、本当は彼女自身がそれを望んでいるのだろうか、とふと思える瞬間があるからだ。
 定食屋や居酒屋のふたり掛けの小さなテーブルの上に乗った手が同時にグラスを取ろうとする瞬間や、最寄の駅で階段を降りていく彼女を見送る万理央を見上げる野瀬の目が。
 万理央はいつも手を握りたくなる、ぎゅうと抱きしめたくなる。どうしよう、どうしようと胸の中で何度も繰り返す言葉は、何度も恋を重ねて幾度も口にした言葉で、そしてその言葉の後にはいつだって手を伸ばして、腕を伸ばして掴んできたものを、今の自分は手にすることなどできない。どうしよう──その言葉は、今は、ただ、自分を押しとどめる為だけのつっかえ棒のような言葉で、その言葉を念仏のように唱えながら、ともすれば伸ばしそうになる手を腕を自分の身体にひきつけるだけのものだった。

 好きになると面倒なことになる、誰かのものだと、分っていたはずなのに。
好きだ、と言わなければ、彼女もこんな風に迷わなかったんだろう。自分だってそうだ。それでも彼女が自分を求めてくれるなら、と思う気持ちが自分をここまで追い詰めている。好きだと言わなければ、彼女だって自分を好きになると言ってくれなければ、ただその庭を走っているだけでよかったのに、あの塔の上で彼女が待っていると知ったから、万理央は苛々と疲弊するまで塔の上までの道を捜し続け、辿り続けなければならないのだ。

 そして、万に一つ、彼女の方がその塔から抜け出て来てくれたとしても、万理央には彼女の手を取って彼女に口づけるほどの勇気を持ち合わせていない。手に触れてその肩をその背中を抱いて零れていく彼女の気持ちごと自分が受け止めてもいいのだろうか、と思うと、そうじゃないと自分の理性は必ずそう言う。塔の中で待っている存在を思うと、それは幼き日の自分と重なってそうする事が出来なかった。


 幼い日、母と散歩した川岸を思い出す。春になればシロツメクサが絨毯のように咲く川辺。明るい陽光が差す場所、川岸の家々の影になる場所、のんびりと川の流れを見ながら歩いていた母が言った。真っ直ぐに歩き続ける道に、必ず日向と影がある、と。そして、薄く影になった川辺で二人、しゃがみこんで捜した四葉のクローバーを、母はいつも上手に見つけては、万理央に細い茎をクルリと回して持たせてくれた。
 ── 「ほら、万理央。幸せのクローバー。」

 母は、幸せだったろうか。クローバーの川岸を思い出すとき、万理央はいつも泣きたくなる。あの、四葉のクローバーを、自分ではなく母がちゃんと持っていてくれたら、母はもっと幸せになれたのではないか。小さな後悔がいつも、万理央の胸を締め付けた。
 
 四葉のクローバーをクルリと回して野瀬に渡す所を想像する。その野瀬は、なぜか幼い少女になって、万理央に笑いかける。
 いつか、あの塔から野瀬を助け出す日に、クローバーを少女にあるいは少年に?渡す事ができるだろうか。ぼんやりとそんなことを思う自分は、本当はどこまでも楽天家なのかもしれない。

 万理央は散歩に出る。一番近い川岸まで。四葉のクローバーを、探すつもりだった。いつだって自分を二の次にしてしまう母親という存在をせめて自分だけは守ってやりたいと伝えるための。