テーブルの上でぎゅぅっと握り締めた野瀬の手に、自分の手を重ねてみたいと思う気持ちを胸の中で掻き混ぜて波立った水面(みなも)を見守る。野瀬を見ると彼女は先ほど解いた串焼きの皿を見詰めていた。

 「俺の粗相って何…?なぁ、もういいよ。なんか分らないけど、俺の粗相なんて忘れてくれなくていい。ずっと覚えててくれたらいいんだよ。それにあんたの粗相だって、一晩中付き合ってもらっても、忘れるどころか、忘れられなくなるだけだから。」

 言い捨てて、帰るつもりだった。でも、言い捨てたその言葉は、万理央の思いの外、食虫植物を痛めつけたらしかった。鞄とコートを持って立ち上がった万理央はまるで見えない糸に引っ張られたようにどすんと椅子に引き戻された。小さな小さな鍵が、食虫植物のユラユラと揺れる足元で光っているのではないか、万理央はそうっと手を伸ばした。

 震えている、ぎゅっと握り締めた野瀬の手に手を伸ばすと、野瀬ははっとしたように手を引っ込めた。目の縁が赤い。
 「ごめ…ん。」
 他に言葉が見つからない。
 「ごめんなさい。」
 もう一度、謝った。何に対して謝罪しているのかも、万理央には分らなかった。ただ、その手に触れてごめんなさい、とそれだけを謝ったわけでもなかった。野瀬遥は俯いて首を振った。カールした髪が顔に当たるくらい大きく。

 野瀬遥は俯いたまま鞄の中をまさぐってティッシュを出すと、ちん、と鼻をかんだ。ティッシュをもう一枚出して、ちん、ちんと鼻をかんだ。

 「好きになる。私も、きっと。──でも…でも、」

 (今、なんて言ったの?)

 万理央が顔を上げると、野瀬遥は万理央を見ていた。鼻の頭が赤い。

 「夫も、子どももいて、夫以外の誰かに恋をするような女を、小林さんは好きになっちゃいけないと思う。」

 小さな小さな鍵。お城の裏のドアを開けて、秘密の部屋へと通じる階段が直ぐそこにある。

 「それでも、好きだよ。」
 万理央は心を込めてその言葉を口にした。”それでも”──かつて、こんなにこの言葉を大事に思ったことがあったろうか。初めて出会った時とは違ういけ好かない営業スマイル。ぞんざいな仕事。既婚者で人の親。職場近くの喫茶店で夫に詰られていた。それでも。それでも。それでも。それでも。何度も何度もその言葉を繰り返した。
 「それでも、いいんだ。」

 分った。このゲームの先に、何があるのか。お城の天辺にいるのは、やっぱりお姫様なのだ。少し、持ち物が多いけれど。
 ──助けて欲しい?このお城から、連れ出して欲しいって、言って?

 「今はまだ、好きになっちゃいけないって、言い聞かせてる。ごめんなさい、小林さん。分って欲しいの。」

 ── いいよ。どんなふうにでも、いつか君がこの城から連れ出して欲しいって言うのなら、

 「分った。」

 その一言が彼女を救うならいくらだって強がってみせる自信があった。

 「いいよ、何でもするよ。友達としてなら、ときどきこうやって飲んだりメシ食ったり出来るの?もし、そうなら…友達の振り、させてよ。野瀬さんがいいって言うまで、絶対好きだとか言わないから。絶対、そんな素振りも見せたりしないから。それくらい、できるから。」