雰囲気の良いバーに誘われる程には酔っていなかったのか、野瀬は自分の知っているお店に行こう、と言って万理央を連れ出した。そこはどうかすると中年のオヤジたちの溜まり場になりそうな酒の種類も多い串焼き屋だった。

 焼酎のお湯割りと串焼きの盛り合わせを頼んで
 「俺の粗相って何?」
 先ほどから気になって仕方がないことを尋ねると、野瀬遥は意味深に笑って取り合わない。壁に掛かった串焼きの種類を端から順に目で追っていた。右耳に掛けた髪が外側に跳ねている。両手を祈るように組んでその上に顎を乗せてカクン、カクンと顎を乗せたり落としたりしながら目は真剣に串焼きの品書きを追っていた。シティーホテルのバンケットルームで飲んだ酒のせいで彼女の頬はまだピンク色に上気している。

 「よく来るの?」
 万理央は溜息をついて話題を変えた。
 「んー、そう…どうかな。たまに、かな。」
 「仕事の帰りに?」
 「うん、そうね。」
 (誰と?)
 何かにつけてその先まで知りたくて尋ねたい事を訊かないでいる。万理央はこの数ヶ月の間に殆ど癖になるほど繰り返したことをまたやってのけて、それをうっちゃるように野瀬遥の目線の先を確めた。──キムチ?カクテキ?塩辛?なめろう?それとも漬物盛り合わせ…どれだろう。
 「塩辛…食べる?なめろう?」
 「え?あ…うん、塩辛、食べたいな。」

 美濃焼きだろうか。焼酎のカップを両手に包むように持って口をつけた。野瀬の首がとくりと動いたのが黒いタートルネックの縁から見えた。白い兎のようなモヘヤのVネックのセーターを着て来れば良かったのに、と思う。あのセーターは野瀬にとてもよく似合っていた。肩や腰周りに比べてほっそりとした首や鎖骨が綺麗に見えるセーターだった。あのセーターなら彼女の首がとくとくと動く所を思う存分見れたのに。

 「ご機嫌悪いの?」
 野瀬は焼酎カップ越しに万理央を見上げて悪戯っぽく言った。
 「すこぶる良いよ。」
 万理央は焼酎カップを揺らしながら頬杖をついて答えた。
 「機嫌悪そうに見える?」
 「見えたよ。」
 「じゃ、機嫌悪いよ。」
 野瀬はカップを置いて楽しそうに笑った。
 「機嫌が良いのは、今、野瀬さんを独り占めしてるから。機嫌が悪いのは…」
 万理央は、運ばれてきた大皿を中央にずらしながら、確かに機嫌が悪い自分の胸にその理由を尋ねた。

 ── 野瀬さんが白い兎みたいなセーターを着てないから。
 ── 野瀬さんが俺以外の人とお酒を飲んでご機嫌になってるから。
 ── 野瀬さんが、もう、誰かのものだから。

 野瀬は大皿の串焼きを箸で解していた。伏せた睫は下向きに長い。蛍光灯の下で薄い雀斑を見せている頬、夏に触れた。野瀬は解した串を綺麗に揃えて並べて、万理央を見た。機嫌が良い理由も、機嫌が悪い理由も、野瀬は聞いていやしない。

 「なぁ。聞いてるの?少なくとも、機嫌の良い理由は言ったんだよ。」
 「聞いたよ。でも、そんな言葉を本気にするほど、若くないからね。」
 「若いとか、関係ないだろ?」
 「ある。言わなかった?私、結婚してるよ?子どもも居るし。」
 「知ってるよ。」
 「それなら、尚更でしょ。」
 野瀬は微笑んですらいた。焼酎カップを覗き込み、一口、二口と飲んでことりとカップをテーブルに置いた。

 「俺が機嫌悪いのはね、野瀬さん、あんたみたいな人を好きになっちゃったからだよ。どうしてこんな馬鹿みたいな恋、始めちゃったんだろう。片思いをするにしても、もっと選べば良かった」

 野瀬遥はとろりと箸で掬った塩辛を口に入れた。野瀬の箸はもう一口塩辛を掬おうとして止まる。両手で揃えられた箸がそっと小皿の上に乗って、野瀬はテーブルの上の手をぎゅっと握り締めた。