万理央が眠って起きて仕事をして時が過ぎて行っても、ゲーム機を開くと必ずメガネを掛けた蜂は前に別れたその場所で万理央を待っている。食虫植物の足元ににある鍵を取らなければ、城の隠し部屋に続く階段の扉は開かない。魔法の食虫植物を黙らせるために必要な虫を彼是と捕獲して、このゲームを続けるかどうか万理央は迷っていた。

 (可愛いけど、既婚者。既婚者だけど、可愛い。可愛いと思うだけなら、別にいいじゃない?害なんてないし。)
 (恋心なら…。)

 万理央は諦める言い訳も続ける言い訳もいくらでも積み上げながら、真夏の夜の街灯の下に揺れた彼女の目を思い出す。遠い国の屋台の並ぶ市場やその通り沿いにある店のどこかのように、曖昧なくせに鮮やかな記憶の中のベトナム料理。ほんのりと色が違うビール。象牙色の箸を器用に操っている手。口紅の取れた薄い唇。柔らかな光の下にうっすらと影を落とす長い睫。

 ──何で、生きているんだろう。
 そう言った彼女の目を、何度も何度も思い出す。手を伸ばして触れたときの彼女の頬の温もりや、自分の手がほんの少し震えた気がしたことも。万理央の手に重ねた彼女の手、立てた爪の痛さも。

 公園前の地下鉄の駅で野瀬と別れてから2ヶ月程経った。打ち合わせで二度程会ったが、二回ともあくまでも仕事ですという顔をして数十分をこなせた自分を大人だと感じた。当たり前か、大人だ。それでも人は恋をするときっと誰もが子供のように無邪気に無鉄砲になって、そして意気地なしになる。

 (この際飽きるまでウロウロし続けてやろうじゃないか。)
 強気にそう思った一瞬後には
 (無理。お姫様がラスボスと結婚してるゲームなんてやる気もおきねえし)
 と心の中のゲーム機を放りなげてやりたくなる衝動に駆られた。
 万理央の心の中の小太りの男は、城を見上げてはドアに近づき、ドアを蹴り飛ばしては庭を走り続ける。



 廊下のごみを拾った女性が野瀬だと気づいたのは彼女が編集室に入って行った時だった。万理央はエレベーターホールから編集室に向かって歩いていた。大きな声で野瀬に声を掛ける。
 「野瀬さん!」
 野瀬は編集室から後ろ向きに廊下に戻って振り向き大きく手を振った。彼女は白いVネックの半袖のセーターを着ていた。モヘヤの毛足はまるで兎のようだ。
 「3番でお願いしますー」
 指を三本立てて、大きな声で答えると、また大きく手を振りながら、書類を抱え直すようにして編集室へ入って行った。一生懸命な姿。やっぱり好きだ、と思ってしまう。
 「よう、小林君。」
 野瀬を見送って廊下に立っていた万理央の肩を叩いたのは篠原だった。
 「担当、野瀬くんだったんだ。」
 「ええ、そうです。この春からですよ。」
 「そうだったんだ。いい子だよ。そそっかしい所もあるけど、真面目なところが何よりもいいね。」
 「そうですね。裏表がないところがいいと思います。」
 「よく見てるね。その通りだ。」
 「そうだ。忘年会は来れるんだろ?」
 「あぁ、えぇ、どうしようかな。」
 「飲もうよ、久しぶりにさ。どこか他に義理のあるところがぶつかってるなら無理はさせないけど、この時期は意外と少ないでしょ?」
 「そうですね。篠原さんとも話したいし。じゃ、呼ばれようかな。」

 編集室から出てきた野瀬遥が「あら?」という顔をして微笑んだ。
 「篠原さん。」
 「うん。いまね、忘年会誘ってたとこ。」
 「良いですねえ。」
 野瀬はにこやかに篠原を見上げた。篠原はじゃあね、と万理央と野瀬の肩を叩いて編集室へ向かって行った。

 野瀬は万理央の先に立って打ち合わせ室へ向かった。カーキ色のフラノのジャケットの肩が、心なしか華奢になったように見える。
 「野瀬さん。」
 「はい?」
 「野瀬さんも、忘年会、行くんでしょ?もちろん。」
 「…?えぇ、その予定です。」
 野瀬はドアを開けて、万理央を待っている。

 このドアを入ったら──
 ── 野瀬さんを諦める
 ── やっぱり好き
 どっち?

 野瀬の前を通って打ち合わせ室に入る。その時、野瀬からは木漏れ日のような匂いがした。あの夏の日、若草色のジャケットが揺れていた夜のように。