「ごめん。飲みすぎた。」

 ── 酔っていたから。
 そんなありきたりな言い訳を振りかざして、万理央は手を離した。万理央の手についてきた野瀬の手が離れなければいいのに、そう祈る間もなくその手は、下ろした途端に離れて野瀬の肩に掛かった茶色い革の鞄の肩紐を撫でそこに留まっている。握ってしまったらよかったのだろうか。
 (──まさか…)
 自分の考えに苦笑して、万理央はまだ野瀬の温もりが残る自分の手をぎゅっと握り締めた。

 「そうだ。」
 黒いナイロンのビジネスバッグに入れた小さな袋を取り出して野瀬に突き出すと、野瀬はそっと手のひらを差し出した。ふっくらとした小さな手のひらに、雑貨屋のロゴが入った白い小さな袋を乗せる。何?と野瀬の目が尋ねた。それは打ち合わせが終わって夜待ち合わせるまでの間に足を延ばした雑貨屋で買った綺麗なフューシャピンクのクリップケースだった。
 「いいデザインだったから買ったけど、女の子っぽいからあげる。」
 本当は、野瀬遥に似合いそうだと思ったから選んだものだ。
 「大事なことは、ちゃんとクリップしとかないと、駄目だよー。」
 万理央は野瀬の方を向いたまま一歩、二歩、と後ろに下がった。
 「じゃ。ここで。俺は三丁目駅の線の方が便利だから。」

 万理央は手を上げて背中を向けた。野瀬は多分、万理央を見送ってあの駅の地下道へ降りていく。振り向いてなどやるものか。意味もない意地を張る自分がおかしい。

 (俺は、始めてしまったのだろうか。)
 駆け引きにもならない、こんなことを。

 ゲームならば目指すところへ向かえばいい。歩いても走っても何かを探し続けることにも必ず意味があるゲーム。たった一人でジタバタしている小太りの男が、万理央の頭の中で途方に暮れる。どこへ向かって行けばいいのだろう。お姫様のいないこのお城の、いったいどこへ?

 万理央は背中に感じる野瀬の視線を振り払うように大きな公園の脇を早足で歩いた。

 始めることもできない恋。どうしてこんなことを始めてしまったのだろう。もっと早く引き返すべきだった。
 いけ好かない、と思ったあの時に。
 これだから女は、と思ったあの時に。
 夫に詰られていた女が野瀬だと知ったあの時に。

 (馬鹿だろ、俺。)
 自分から飛び込んだのだ。こんな訳が分からないゲームの中に。助け出すお姫様もいない、お城をただウロウロするためだけのゲームの中に。

 まだ、間に合うのだろうか。
 ギブアップ、そのボタンを押して、この面から抜け出すためのブラックホールは、いったいどこにあるのか。