少し酸っぱかったり、少し辛かったりする料理を、モリモリと平らげていく。美味しそうに食べる姿は見ていて気持ちが良かった。野瀬が何かを語る時、そして万理央が話す時も、くるくると変わる表情が言葉以上の何かを伝えようとする。
 女子大学を出ている野瀬の出版社ばかりを狙った就職活動中のテンヤワンヤ。編集部への異動を希望し続けた10年間の出版社OL生活。最近読んだ本や映画の感想、ときどき差し込まれるテレビで見た、という雑学。万理央は笑ったり眉を顰めたりしながらこれも真剣に聞いた。
 野瀬は不思議な人物だ。もう何年もこうしてたまに会っては食事を共にする学生時代からの気の置けない女友達のような気がしたり、万理央は一人っ子だけれど、もしおねえさんが居たらこんなか、と思えたり、あるいは妹がいたらこんな風かと思えたりする。そうかというと、彼女の笑顔の綻ぶどこかが泣きそうになる表情のどこかが、万理央を惹きつける。まるで胸に紐を巻きつけられてそれをぎゅっと引いて縛り付けられるような痛みすらあった。
 どこまでも「同士」のような素振りでいるこの人の、どこに女性としての魅力を感じるのか、万理央は自分でも分らないのに、どうしてもこの女性を「可愛い」と思う。
 
 ぽっかりと夜の闇空が開く都会のど真ん中にある公園を行き過ぎて最寄の駅まで歩きながら万理央は至極真面目な顔で言った。
 「可愛いって言っているのに。」
 肩を並べて歩く野瀬遥が厳しい表情で答える。
 「可愛くありません。」
 「何で素直に受け取らないの?」
 「受け取って何になるの?」

 野瀬遥はあの食虫植物みたいだ。城の裏手へ延びる小道の門番をしている食虫植物。隙あらば噛み付こうとしてユラユラと揺れている。そのくせ、特別な虫を食べさせたらウトウトと眠ってしまうくせに。野瀬遥を黙らせる虫は、どこにいるのだろう。どの虫だろう。

 「分ったよ。受け取らなくてもいい。あんたがどう思おうと、俺が勝手に思ってる分には構わないでしょ。可愛いと思うよ。ただ、それだけ。」

 地下鉄の入り口で立ち止まり、万理央は野瀬遥を見下ろした。
 可愛い女に見られる事に、抵抗があるらしかった。ラブロマンスを好んで観たり、語り口の柔らかな文体の小説を好んだりしない。フリルやレース、ピンク色の服は着ない。女らしいことを自分に求めて欲しくない。野瀬遥は頑なに可愛いという言葉を拒んでいるらしかった。そして、なぜなのか万理央はそのことに気づいたからこそ、そういうことを言ってみたいと思う自分を止められなかった。

 「小林さん・・・、いい人だと思った。」
 「いい人ですよ?俺は。それとも──野瀬さんにとっては悪い人なの?可愛いって言うから?」
 万理央はため息混じりに責めるように言った。
「そ、そうじゃないけど。そうじゃなくて。──こんな話をしに来たんじゃないんです。私。」

 肩に掛けた鞄の紐を掛けなおして、野瀬遥は少し黙った。万理央は彼女の言葉を辛抱強く待った。
「右から、左に、」
 頭を上げて万理央真っ直ぐに見た野瀬遥の目は、街灯を映って光っていた。野瀬は最小限の言葉で伝える術を捜すようにゆっくりと口を開いた。
 「言われたことだけをやっているんじゃ駄目だって、小林さんがそう言ってくれて、私、そうだ、大事な事を忘れてたなって思い出したんです。右から左に仕事流していく事すら難しいことがあって、とにかく流せていけたら仕事をしている気になって。私、何やってたんだろうって。家族の事も、家庭(いえ)の事も、仕事をしているからって言い訳しながら出来ないことが沢山あって、そうやって家族や家庭を犠牲にしているのに、その仕事すらちゃんとやってなかった。私、何のために仕事をしているんだっけ?どうして仕事を続けたいんだろう。 私、何のために──

 ──生きているんだろう。」

 野瀬遥は息を吸い込むように、最後の一言を口にした。彼女の目が光っているのは本当に街灯が映っているからなのだろうか。万理央は自分でも気付かずに、手を伸ばしていた。頬に触れると毛先をカールした野瀬の髪がユラリと揺れた。野瀬は万理央の手に自分の手を重ねた。人差指の付け根に野瀬の爪が当たる。それでも、手を離す気はないとその手で伝えると、野瀬は諦めたようにその手を重ねたまま、少し首を傾げた。彼女の髪は肩の上で少し撓(たわ)んで、街灯に透けていた。