「アジア料理は好き?和食は?イタリアンとかの方が好きだったりする?」
 万理央はビジネスバッグを右手から左手に持ち替えながら野瀬遥を伺った。野瀬はふっくらした指の甲を顎に当てて、それは多分、彼女が何かを考える時の癖なのだが、首を少し傾げ、
 「ええ、アジア料理も好きだし、和食も、イタリアンも、フレンチも、何でも好きです。ラーメンも居酒屋も。」
 と、万理央を見あげて微笑んだ。その笑顔はまだどこか営業用の笑い方で、バーベキューの時の彼女とは少し違う。今日は彼女は若草色の麻のジャケットを着ていた。薄青い夏の夜の始まりの中にその色がふわりと揺れている。今彼女が口にした中の、どれが一番好みなのだろう。万理央は野瀬の丸い青白い顔をじっと見詰めた。
 「ベトナム料理は、好き?」
 「好き。」
 万理央は頷いて前を見た。それから野瀬の足元を見て
 「少し、歩くんだけどいい?」
 と尋ねた。低めのパンプスを履いた野瀬は万理央を見てニッコリと笑った。
 「大丈夫。」
 その笑顔は営業用の笑い方と少し違うような気がした。一歩、一歩、夏の夜を歩く毎に少しずつ解けていく彼女を見守っていたいと万理央は思った。そうしてついつい隣を見てしまう万理央に、野瀬遥はたまに戸惑いを見せながら都会の夜の中を背筋を伸ばして歩いて行く。若草色の麻のジャケットが風を孕む度に、夜にはまるで不釣合いな春の日向のような匂いをさせて翻った。

 レストランに着いて席に案内された時、野瀬遥の額にはうっすらと汗が滲んでいた。真夏の暑い夜にジャケットを脱いだら良いのにと思うけれど彼女はジャケットを脱がなかった。茶色い革の大き目のバッグの中からハンカチを取り出して額を押さえている。
 万理央は黒いポロシャツの胸元を引っ張って扇ぎながら、テーブルの端に載ったプラスチックのメニューに写真つきで載っているビールを頼もうと決めた。
 「野瀬さん、ビールは飲める?これどうかな。」
 「ん…えぇ、そうですね。頂こうかなぁ」
 それは、333(バーバーバー)というビールだった。
 「666じゃなくて良かった。」
 野瀬はメニューの写真を見て、万理央を見て言った。
 「うん。 ダミアン、だっけ?」
 「オーメン、観たことあります?」
 「うん。あるよ。野瀬さんは?」
 「ありますよ。思った程怖くなかったけど。」
 「あまり現実的な感じがしないんだよね。キリスト教とか悪魔とかが身近じゃないからなのかな。」
 「そうかもしれないですね。なんで666なんだろ。いつもそう思うけれど調べるのを忘れてしまうの。」
 「聖書に載ってるんじゃなかった?悪魔の数字とかなんとかいうの。それに666ってなんか素数を掛け合わせると666になるんだって。違ったかな…。ホラー映画、好きなの?」
 「うーん。そうでもないけど…でも、怖いのも好きかなあ。羊たちの沈黙とかあのシリーズは好き。」
 「へぇ、意外だなあ。」
 「意外?そう?何なら意外じゃないの?」
 「そう…ラブロマンスとか…?」
 野瀬遥は鼻の穴を少し膨らませて「ふん」と笑った。けして嫌な感じではなく、どちらかといえば滑稽で万理央はつい笑ってしまった。
 「何?」
 野瀬遥は眉毛を上げて万理央を見た。
 「いんや、何で怒ってるの?」
 「怒ってないですよ。ラブ・ロマンスが好きなように見えるって言われたから、そんな可愛げのある女に見えてよかったなって思っただけ。」
 それでも、明らかに彼女は少し不機嫌そうに見えた。
 そこへ、333ビールが運ばれて来た。万理央はにこやかにビールを手に取り掲げて言った。
 「お近づきのしるしに!」
 「・・・乾杯。」

 このくらいのジャンプなら、届くだろうか。このくらいの速さで走っても大丈夫だろうか。ここはモタモタしていると落っこちてしまうだろうか。このブロックは壊しても良いのだろうか。この壁には何が隠されているのだろうか。小さなジャンプを繰り返す。足を速めたり忍び足で歩いたりしてみる。ほんの少し叩いてみて、大丈夫そうかな、と伺うように、あるいは、思い切って大きく振りかぶって。

 そうやって、少しずつ、野瀬遥という人物を探っていくのがいまはこの上なく楽しかった。