(恋とかじゃなくて…)
 と、万理央は言い聞かせるように胸の中で何度も繰り返す。
 (最近失敗続きでともすれば信頼関係を失いそうであるからして。)
 (そう、新しい担当者との信頼関係を築く為、それ以上でもそれ以下でもないし。)

 「メシ、食いに行きませんか?」
 思わず口にした自分の言葉に、自分自身が驚いて息を飲んだ。すると、野瀬遥はふっくらした手の甲を顎の当てて少し考えるように首を傾げ、それから「多分今日なら…」と万理央を見た。
 「今日で…大丈夫ですか?俺の方はいつでも良いんですけど…」
 「ええ、いえ、今日の方が都合が良いんです。急ですけど、逆に大丈夫ですか?」
 首を傾げた野瀬遥のカールした細い髪が陽を受けて茶色く光っていた。

 本棚に並んだ背表紙のタイトルは、少しも万理央に入ってこない。平積みになっている美しい画集や写真集も、今日は少しも惹かれるものがなかった。万理央は手近な一冊を手に取ってパラパラと捲りながらまったく別のことを考えていた。──本屋、電器屋、それから新しく出来たビルに入ったあの雑貨屋に行ってみたかったんだけど、野瀬と待ち合わせることを考えると少し遠いだろうか。

 万理央は手にした本をもう一度平積みの上に置いて、とうとう棚を離れた。レジの近くの情報誌のコーナーを通り過ぎようとして、はたと足を止める。久しく見ていなかった。こういう雑誌があることすら忘れていた。万理央は週末の東京を満喫する為の情報誌。万理央は以前はたまに立ち読みをしたりした一冊を手に取った。
 脳は忙しく働く。──ゆっくりできる所がいい、でも、あまり雰囲気が良すぎたらデートみたいで重過ぎるだろうな、かといって居酒屋みたいなのも…そんなことをクルクルと考えながら目は丁寧に情報誌の端から頁を辿って行った。

 結局、思わしい店も見つからず、雑誌を棚に戻すと万理央は本屋を出て行った。この調子では電器屋でも収穫があるとは思えない。どこかでのんびりするには気持ちが落ち着かない。こういうときは移動するに限るのだ、と万理央は思う。そして結局、朝予定していた雑貨屋へと足を延ばした。

 色使いが鮮やかな東欧風の雑貨が所狭しと犇(ひしめ)いている雑貨屋は何となく気持ちが紛れて来て良かったと思えた。キッチンで使うもの、リビングに置くもの、飾る物、文房具…色使い、形、デザインを一つ一つ丁寧に見て歩いた。
 ひとつ、お土産を買っていこうか、とふと思いつく。初めて食事をする女性にそういうことをするのはどうなのだろう。でも、あまり気にらないような物なら…。出来ればほんの少し今日の食事の記念になったら嬉しいけれど。
 文具の棚を見ていると、綺麗なフューシャピンクのテープカッターがあった。それは羊を象った形をしていて愛らしい。似合いそうだけど、使うだろうか、と思うと少し躊躇う。明るい色の文房具を一つ一つ手にとって、テープカッターとお揃いのクリップケースの方を手に取った。小鳥が水を飲むようにクリップを啄ばむようなデザインだった。万理央は心持ち浮き足立ってレジへと向かった。

 開かない自動ドアの前で、中年と言える自分と野瀬が真剣な面持ちでマットの上で右往左往してはジャンプして、呆然と上方を見上げている姿を冷静に思い出して見ると、傍(はた)から見たら如何に滑稽だったであろうと、ついつい微笑みが零れる。
 (きっとあの時…)と万理央は思う。
 きっと、あの自動ドアの下でマットがハッピーコインを出していたのではないかと。万理央がジャンプするたびに、キラキラと光るコインがあの開かない扉の下に降り注いで、万理央の勇気のハートが満タンになった。
 (くっだらねー)
 そんな子どもじみた考え方に、自分で自分を笑いながら、それでも万理央は確かに何かが「満タン」になったハートを胸から取り出して空高く放り投げてみたいような、そんな気持ちがした。

 『お礼が言いたくて…大事な事を忘れてた…って』
 大事なことって何だろう?
 それから…どこに行こう…。何料理が好きだろう。
 野瀬に訊いてみたいいくつもの質問。まずは リスト1.何料理が、好き?