一.


潮風を頬に受けて、アルハはうんと伸びをした。甲板にはまだ誰の姿もない。一番乗りのようだと、アルハはにっと笑った。
「今日も快晴か」
昨日港町を出たばかりのこの船は、順調に航路を進んでいる。アルハの目的地までは、あと残り数日といったところか。
まだ日は出たばかりで、空気は寒い。たん、と甲板を走り、マストのある中央へと移動すると、人影が見えた。どうやら、甲板にいたのは自分一人ではなかったらしい。
フードを深く被り、厚めに衣服を着込んでいるその人物も、アルハに気がついたようで、すいっと顔を上げた。すると、驚くほどの白皙の肌が現れる。美しい顔立ちのようだ。残念ながら、顔の上部分はまだフードに隠れて見えなかったが。
「早いな。なにしてんだ?」
アルハが興味深そうに聞くと、フードの人物は少し口端を持ち上げると、黙って傍に置いてあった楽器を手に取った。
「リルハーレか」
有名な弦楽器だった。普通は正式名は呼ばれず、愛称でリルと呼ばれる。知らない者はいないと言っても過言ではない楽器だった。しかし、その有名さとは反対に、弾ける者は数少ない。アルハももちろん弾けるわけではなく、ただ知っているだけだった。
フードの人物も、軽く頷く。ピィーンと、弦を弾いて見せた。美しい音が、辺りに響く。
「綺麗だ」
素直な感想を言うと、フードの人物が初めて口を開いた。
「…ありがとうございます」
リルに負けない、美しい声だった。どうやら女性のようだ。
「演奏できんのか?」
「…ええ、まあ。下手ですけれど」
アルハは目を輝かせた。リルを弾ける者には初めて会った。
「聞いてみたい。何か一曲弾いてみてくれねえか?」
「いいですよ。それでは…"夢路"を」
フードの女性は頷くと、リルを奏で始めた。美しい音色が広がる。リルの弦の上を滑らかに踊る指は、細く雪のような白皙だ。
その音色に聴き惚れながら、アルハは海の水面を眺めた。まるで夢幻のような時が流れてゆく。
ピン、と最後の弦が弾かれた。空気が冷たいものへと戻り、アルハはフードの女性に思わず拍手を贈った。
「すげえ上手いじゃん!」
「いえ。そんなことはありませんよ」
フードの女性が謙遜したとき、突然強い潮風が吹いた。
「あっ…」
「おっと!」
女性が羽織っていたフードつきのマントが飛ばされる。アルハは慌ててそれを掴むと、女性に差し出そうと女性を返り見る。と、その状態で固まった。
すっと細まった瞳は、美しい白銀。まるで虹のようだ。清楚さを感じさせる、絶世の美貌だった。地につく髪は闇夜を溶かし込んだかのような漆黒で、さらさらと滑らかな艶がある。細い髪が、海風に舞った。
「すみません。ありがとうございます」
女性が口を開くと、アルハは我に返ってマントを差し出した。
「あ、ああ…珍しい目だな。おんなじ黒髪の人間には初めて会った」
自分のざんばらに切られた黒髪を摘まんで、アルハは笑った。
「あなたのも、十分に珍しいと思いますよ」
サラの指摘に、アルハは自分の金色の光る瞳を瞬いて、苦笑した。
「あー、これ?そうかもな」
「ええ。とても綺麗ですね」
そう言って女性は再びマントを羽織ったが、フードは被らなかった。
「フードはいいのか?」
「ええ…目立つこの顔を隠すものでしたが、あなたはもう見てしまいましたし」
にこり、と。微笑む女性はとても美しい。
「えっと…すまん」
「なぜ、あなたが謝るのです?あなたはマントを取ってくださったのに」
女性は苦笑して、リルを抱えると立ち上がった。意外に長身だ。アルハと十センチも違わないだろう。
「まあ、な。俺はアルハ。アルハ・ナンだ。あんたは?」
今更ながらに、アルハは自分が名乗っていないことに気がついた。それは女性の方も同じだったらしく、にこやかに名乗ってくれた。
「サラ。サラ・ティーライです」
そう言って、サラと名乗った女性はアルハに手を差し出した。
「よろしく」
アルハもその手を取り、二人は軽い握手を交わした。
「ええ。よろしくお願いしますね」
会話が途切れたとき、野太い豪快な大声が甲板に響いた。
「おう。朝っぱらからなーにやってんだ?」
この船の船長、ジン・ロンだった。アルハは笑って手を振り、サラも微笑んでいる。
「あれ?おまえさんたち、もう知り合ったのか」
早いなぁと呟くジンは、なにやら意味深だ。
「? どーいう意味だ?」
アルハが訝しげに尋ねると、ジンは笑って答えた。
「なーに。今回レガンまで行くのはおまえさんたちだけだからな」
レガンとは、アルハの目的地である。バレルの首都にして、商売の盛んな街だ。サラもそこへ行くのだと聞き、アルハは心躍った。
「あんたもレガンに行くのか」
サラも意外そうにしながらも、微笑んで頷いて見せた。
「ええ。あなたもなのですね」
「あんたがよかったらだけど、レガンから一緒に行かないか?」
その誘いに、サラは驚いたもののすぐに嬉しそうに頷いた。
「もちろん。ご一緒させていただきます」
そこへ、ジンが口笛を吹いて野次を入れた。
「おーおー。熱いねぇ、お二人さん」
「うっせ。ンなことより、レガンまではどのくらいだ?」
航路は穏やかな水面が広がっている。天候にも恵まれて、この分なら予定よりもかなり早く着けるのではないかと、アルハは踏んでいた。
「そうだなぁ。この調子だと後二日ってところだな」
見積もりでは三日、四日はかかるということだったが、やはりかなり早く着けるらしい。
「朝飯食いに食堂に来いよ。早くしねえと冷めちまうぜ」
ひらひらと手を振りながら、ジンは船内に戻って行った。
「俺らも行くか」
アルハは、空きっ腹に気がついて、サラを見やった。サラも頷くと、リルを抱え直して、上品で優雅な足取りでアルハと並んだ。
食堂には、もう沢山の人がいた。料理と人口密度のせいで、ひどい熱気が籠っている。海の上では、料理に質は求められない。保存食をベースに作るため、栄養も偏りがちだ。アルハは、この繊細そうなサラがそのようなものを食べれるのかと、少し疑問に思った。
「サラ。あんたは何食べんだ?」
アルハは群衆からサラを庇いながら、トレイを二つ取ると、一つをサラに渡した。
「ありがとうございます。わたしはスープをいただければと」
そう言うと、肉類を大盛りに取るアルハの横で、サラは野菜のスープを取った。アルハはパンも三つほど取ったが、サラはスープを取っただけで他には何もトレイに乗せなかった。
「それだけか?少ないだろ」
「いえ。十分です。あなたはよく食べるのですね」
サラはアルハのすべてに置いて大盛りのトレイを見て、驚いたように笑った。
「そうか?これが普通だと思うけど」
二人は席に着くと、それぞれの朝食を食べ始めた。サラは、アルハを含む周りの男たちと違い、食べ方にとても品がある。
そういえばと、アルハはサラがフードを被っていないことに気がついた。道理で群衆がサラに注目するわけだ。アルハは、サラの繊細な手を見やり、綺麗な手だと改めて思った。
「…どうかしましたか?」
サラがアルハの視線に気がついて、不思議そうに尋ねる。アルハは笑ってなんでもないと言うと、厚切りの肉にかぶりついた。
そうして朝食を終え、トレイを片付けていると、突然食堂のドアが乱暴に開かれた。
「た、大変だ!!」
入って来たのは、痩せた男だった。顔色は蒼白で、その様子から只事ではないことが見て取れる。群衆がざわめいた。
「海賊だ!!」
アルハとサラは顔を見合わせた。どうやら、とんでもないことになっているらしい。
食堂は出口に向かう人で混乱状態になった。誰もが我先にと出口に押し掛け、おしくらまんじゅうのようになってしまっている。アルハはサラの手を引いて、恐慌状態の人々の間を縫ってようやく甲板に出た。
「大丈夫か?」
庇いながら抜けたものの、サラへの負担は大きかったはずだ。しかし、サラはにこりと微笑んで頷いた。そこに、慌てた様子はない。大の大人よりもよほど肝が据わっていると、アルハは感心した。
「ちぇっ…数が多いな」
甲板から見えるのは、明らかな海賊船。ロープを渡して、もうこちらにあらかた渡って来てしまっている。ざっと見積もっても百人以上はいるだろう。一人ならば闘うこともできるが、今はサラがいる。どうにかしてサラは守らなくては。
「アルハ…」
サラが抑えた声でアルハを呼んだ。
「ん?どした」
「彼ら…どうやら海賊ではなさそうですよ」
落ち着いたサラの声が、耳に心地よい。しかし、言われた内容に、アルハは首を傾げた。
「え?」
アルハはサラを見やる。透き通った白銀の瞳と目が合った。
「どうやら、わたしたち以外の方を捕らえているようです。殺しもしなければ、金目のものを探す様子でもありませんし」
確かに言われてみれば、海賊は誰も殺していないし、金目のものを探そうと船内を荒らしに行く様子もない。
「じゃあいっそ、話しかけてみるか」
「ええ」
アルハはサラを庇うように立ちながら、海賊の中で指揮を執っている男に近づいた。
「おい、あんた」
がっしりとした体躯の、厳つい顔つきの男だった。アルハとサラを見やると、まるで調べるかのように全身くまなく見られる。
「おまえら、どうやらルドーの一味ではなさそうだが…」
「ルドー?」
アルハが訝しげに尋ねる。
「ああ。ここんところ、不正行為が目に余る大商人の組織だ。ジンの言ってた二人ってのはおまえさんたちのことか」
納得顔の男とは反対に、アルハとサラはわからないことだらけだ。
「船長?船長がどうかしたのか?」
「あいつも俺たち軍の人間さ。先に報告に立ったがな。どうしても乗せてほしいって頼む二人の一般人がいるから、そいつらのことは保護してやってくれって頼まれたんだよ」
さらりと、重要なことを言う男に、アルハは大声を上げた。
「軍!どこのやつだよ」
「バレルさ」
アルハとサラの目的地である国だった。
「おまえさんたち、レガンに行くんだろ?乗っけてってやるよ。一味を全員捕まえ次第レガンに向かうから」
結果オーライとでも言うべきだろうか。アルハとサラは顔を見合わせ、次いで笑った。
「ああ、よろしく頼む」
「お願いします」