愛する人がいた。
彼女は僕なしでは生きていけないと
そう言って、すすり泣く。
僕は彼女のそんな脆いところに惹かれていたし、
彼女が、花のように笑うところが好きだった。
僕たちはいわゆる幼馴染みというやつで、
家族にも、友人にも公認の二人だった。
僕はこのまま彼女と家族になることに
さして疑問も抱かなかったし、
逆に家族になることの方が自然で
当たり前だとそう思っていた。
その時、僕は若くて幼くて青くて。
そして真っ直ぐだった。
22歳、僕たちは家族になった。
大学を卒業するのを待って籍を入れた。
結婚式は彼女がやりたくないと言ったから、
簡単な写真だけで済ました。
結婚。
そうは言っても毎日は何も変わらなかった。
いままでどおり、彼女はときどき泣いて、
僕はそんな彼女を抱き締めて慰めて、
僕は君を捨てない、とそう優しく語りかける。
暖かい日には外に出て、散歩をする。
雨の日には家の中で映画鑑賞をする。
二人で仲良く布団に入って
他愛もない話をしながら指を絡める。
中学の時から何も変わらない。
けれど、僕は間違いを知った。
僕は恋を勘違いしていた。
それを知ったのは社会人2年目の春のこと。
桜の舞う季節。
出会いの季節。
別れの季節。
僕は出会ってしまった。
沙弥、彼女に。
沙弥は明るく屈託がなく、
まるで太陽のように温かい人間であった。
強くて優しいそんな人であった。
沙弥と僕は惹かれあった。
いけないことだと分かっていながら
僕は沙弥の唇に何度もキスをした。
沙弥は、はじめ泣いていた。
こんなことは許されない、と。
なのにどうして
貴方の手を振りほどけないの?と。
大きな目から涙がこぼれる度に、
僕は優しくキスをして
君は何も悪くない。
君に惹かれてしまった僕を責めてほしい。
君を離せない僕を許してほしい。そう言った。
ずるい、と一言言った彼女が
僕の背中に手を回したとき
僕たちは互いに罪を背負った。
沙弥はよく言った。
あたし、ちゃんと理解してるからね。
貴方の立場がなくなりそうになったら
そんな時はあたしを切り捨ててくれていいの。
あたしは貴方を愛しているから、
邪魔になったら、いつでもそう言ってくれていいの。
そんな、しおらしい沙弥に僕はいつも勝てなかった。
このとき僕は、汚くて、ずるくて、
そんな大人になっていた。
僕と沙弥の関係が変わったのは1年後の春。
僕はその時、彼女との生活と沙弥との生活。
どちらの時間を
自分が必要としているのかを分かっていた。
けれど、僕を、
どんなときも何より必要としていたのは彼女。
もともと不安定である彼女を
追い詰めたのは僕だ。
僕を小さいときから愛し、
僕しか知らず、僕だけにしか頼れない彼女。
そんな彼女は1年後の春、手首を切った。
電気のついていない部屋で
力なく横たわる彼女を見つけたときの
僕の感情はなんと言ったらいいだろう。
僕のせいで運ばれていく彼女を見たときの
罪悪感は想像していたものよりずっと、
僕を苦しめた。
そして、
うすうす気づいていた気持ちが溢れ出した。
そしたらもう彼女のもとへ走るしかなかった。
沙弥、と呼ぶとほころぶ顔が好きだ。
僕を見つめるその瞳が好きだ。
ほほに触れれば、
その手に寄り添うようにする沙弥が好きだ。
病室に横たわる彼女が目を開けたとき、
その視界に入ったものは何だったろう?
主治医か?看護婦か?彼女の家族か?
それとも、僕の置き手紙だろうか。
一人で目覚めたときの
彼女の絶望を思うと胸が痛い。
ごめん、ごめんね。
許さなくていい、許さなくていいから
幸せになってほしい。
鳥のさえずる朝の日に、隣に眠る愛しい人。
その長い髪に指を絡ませれば僕と同じ匂いがする。
僕の指にはもう僕たちを苦しめた指輪はない。
そこには、真新しい華奢な指輪が。
ぴかぴか光って僕たちの未来を照らしている。
犯した罪は消えない。
けれど僕は償っていく。
許されなくても、許されなくても。
end
